[コメント] マンハッタン(1979/米)
ペーソスの薄味が「自意識」の葛藤を希釈し、プロットが弱い分、映画を印象付ける演出の拙さが際立つSO-SO作品
『アニー・ホール』で達成した私物語から、他者の中に自己を顧みようと内省的であることに根ざした映画『インテリア』での苦渋を挽回するべく、得意の一人称スタイルに回帰した本作であるが、やはり前作『インテリア』でのシリアストーンが影響して、ユーモアの達観ぶりが抜け、やや鈍重な趣を配して精彩を欠いた凡作であった。確かに、ゴードン・ウィリスのカメラによるニューヨークのモノクロ映像は、シーンをカットの強度で語る意志に映像美術の旨みを堪能できるし、その背景にガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」は、ニューヨークという都市の猥雑な景観とモノクロ映像に色彩を与えるイメージ豊かな演出であったといえる。しかし、本作は『アニー・ホール』で見せたような彼のユーモアが映画のスタイルに影響を及ぼすといったような、清冽な印象を手にすることができなかった。本作でアレンが目指したのは、「自意識」の葛藤という「自己探求」のドラマという「内容」に、「器」としての独自性を叶える映画スタイルを獲得することであったように思う。だが、前述のウィリスの映像やガーシュインの音楽を手に入れても、彼が映画を操作する「映画の肌理」に滋味深いポエジーを生み出すには至らなかった。やはり映画はカットの強度や美術、音楽などの素材だけでは完成しない深さがある。ここに素材を編集する作家独自のアーティキュレーションを感得することが映画の旨みであるというならば、本作においてのアレンは、彼の創造性にある映画世界の暫時的状態にあったと言わざるを得ない。ところで、マリエル・ヘミングウェイはどこへ行った?
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