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[コメント] ドラえもん のび太と鉄人兵団(1986/日)

22歳になってドラえもん映画を真面目に見た。最初のび太の他力本願もドラえもんの甘さも気になって画面に集中できなかったのに・・・
シオバナカオル

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この作品が上映されたのは1986年、同級生には『天空の城ラピュタ』やドラクエとゼルダの一作目が発売など、後の日本のメイン・サブ双方あらゆるカルチャーに多大な影響を与える(事となった)年なのだが、1989年生まれの私が今作を懐かしく思うのは何故だろうとふと考えた。そして一つの結論に至った。

ドラえもんシリーズ(特に映画版)に一貫しているメッセージとは「夢を持つこと」である。

のび太を含むキャラクターたちが歳をとらない普遍性には、私たちは幼少期の自分を投影させ、また現在の私たちとの「夢」への距離を取らせる効果がある。

つまり、のび太を含むキャラクターたちの小学生という「一番イイ時期」はイコール私たちの「夢」そのものであり、また彼らはそんな私たちの「夢の体現者」なのだ。今作の象徴である「ロボット(アンドロイド)」はこれら「夢」や「理想」を露骨に映し出す存在である。冒頭ののびた太にとってのロボットは夢であり、終盤出てくる科学者にとってのロボットは人類の理想となる。

また今作でやたら登場する「鏡」というのも重要なファクターを成しており、ロボットたちが理想的に歩んできた歴史は人間たちが歩んだ破滅への歴史そのものだったというパラドックスが合わせ鏡的に用いられており面白い。

ここら辺の、夢の体現者が色濃く映される面や、子どもにはやや難解な伏線が他のドラえもん映画の中でも今作が今日に続くファン(子どもだった大人たち)への根強い人気になった勝因だろう。

また、ドラえもん映画屈指の美少女であるリルルとしずかちゃんとの友情シーンもアツい。最後なぜこの物語における本当の主人公であったはずのしずかちゃんではなく、のび太がリルルと再会(幻想?)するのかは極めて謎だが、今日までに脈々と受け継がれている所謂「百合」の文化はここで潜在的に広まったと筆者は推測している。(笑)

ドラえもんの道具は魔法ではないし、ドラえもん自体は超科学的な存在であるからこそのび太は現代の社会的弱者にもならなければ、物語自体が説教臭い印象を与えない。そこに未来が見えるからである。

私たちがどこまでいこうとのび太は、私たちが懐古した時恥ずかしく思うような「ダメで」「責任能力のない」「だけど素直な」子どもであり続ける。彼らに預かってもらっていた夢は今どこにあるのか、あの時素直に感じた友情や愛情は今もあるか、この映画を見る度に確かめることができる。

(評価:★5)

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