[コメント] 叫びとささやき(1972/スウェーデン)
ベルイマンは常に家族の形について様々な角度から描こうとしています。それは日本であれば小津安二郎。しかもかなりハイクラスな貴族ですね。その意味ではヴィスコンティ。でも破綻しますね。必ず。それは同じ家族なのに、お互いの真意を言いません。我々下々の下町家族のように毎日怒鳴り合ったり、喧嘩したりしませんね。上品なんです。だから同じ姉妹だったり親子だったりしても、本音は出てきません。親でもいれば多少道筋にはなるのでしょうが、貴族のありかたとは存在そのものなんですね。我々にはわかりません。
この映画は現在=次女を中心点にして、その次女の死から過去=姉、未来=妹の貴族社会に隠された見えない現実を映し出すことで、死に行く現実を描写しようとしています。過去、性への欲求、老いていくことへの恐怖と性への欲求ですね。未来、それは破天荒ですね。予測不能。未来は見えないということですね。
次女が亡くなり、お手伝いさんが日記を読みますね。そこにはありふれたことしか書いてません。きれい事しか書いてないんですね。これが怖いですね。変態ですね。彼女は自分の欲望、欲求をそのまま体に詰めて死んで行ったんですね。残された過去と未来とお手伝いさんはもう生きていられませんね。自分達が悶々と抱いている性的欲求を死んだ次女は全く抱いていなかったのか?というところが恐怖ですね。自分に置き換えると、姉も妹もアホですね。怖いなあ。
舞台中心のベルイマンにとって最も映画的な映画です。
この系譜としては、色々なことが想像されます。
ブレッソン的であったり、パゾリーニ的であったり、ゼフィレッリのようでもあったり、考えを変えれば最もベルイマンとかけ離れた映画ともとれます。
皆さんがコメントされているように、彼はこの後もっと通俗的にあるいは現実的に表現の場として映画を使おうとしているようにも思えます。
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