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[コメント] 第七の封印(1956/スウェーデン)

信仰と恐怖は相互補完しているという寓話。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







何かを恐れると、それから身を守ろうとする。生物の怖れは究極「死」ということになるのだが、そうなると物理的なものではもう身を守れないから、人は人を創造した(ことになっている)「神」を求める。と、同時に折に触れ神を思い出すようになると、その都度「怖れ=死」を意識するということになる。信仰が強まれば強まるほど、却って死が前景化していく。つまり信心深い人ほど、逆に死を引き付けてしまう。本作の主人公の騎士が神に会いたいと常に願うことで、却って死神と会ってしまうというのはその喩えだ。もっとも象徴的なのが懺悔室で告解した相手が死神だったというシーンだ。(このシーン。最初は懺悔室の窓の格子にさえぎられて死神の目が隠れているためそれが死神だとは騎士には見えないのだが、騎士が顔をあげる動きと同期してとカメラも移動すると、格子の陰から隠れていた死神の目が現れてこっちを睨んでいるカットがあるが、目がピタっと格子の隙間から覗く位置でピタっと収まるのはかっこいい。)

そうやって信仰心と恐怖心、神と死は相互補完しているのだと思うが、死は実存しているが神は実存していない。平穏な日常において死は実存しているとはいえ概ねそれは非存在なものだが、伝染病によって紛れもない現実的なものになった場合、神の非存在は死に対しバランスを欠いたものとなるのだろう。騎士の懐疑はそこにある。なぜ神はここにいないのか。しかし考えてみれば「死」は誰にとっても一度だけのものであるはずだ。ふだんわれわれが触れている「死」とは「死」そのものではなく「死」への「恐怖」だ。死と違って恐怖や神はあくまでも人間が作り出したものだから、そこに実存を求めてしまえば真理を歪めてしまう。もし神が存在したとしても、それは死と同じくたった一度きりのようなものだ。ふだんのわれわれが翻弄されているのは、神と死ではなく、信仰と恐怖という人間が自分で作り出しているものに過ぎないのだ。生き残った旅芸人一家とその他の死にとりこまれた人々の双方を描き、旅芸人が神と死を視認できる能力の持ち主と描き、その妻をして「また幻でも見たんでしょ?」といわしめることで、おそらく監督はそういったことをいいたかったのだと思う。

中世ヨーロッパの迷信を描いた題材だが、案外古臭くもないと思った。たまさかペストほどの致死量に至らないことで死が実存的でもないということと、自然科学という視点があるおかげで、コロナ下の我々はこの作品の登場人物たちよりは多少賢いかも知れない。しかしもう少し死が眼前にせまってくるようであれば、たやすく「魔女狩り」などを行ってしまうのだろう。さしずめお手軽なネットを使って。

(評価:★4)

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