[コメント] 初恋のきた道(2000/中国)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ひとが出会い別れる。だがそれだけでは、ドラマはなりたたない。重要なのはいつも真ん中だ。真ん中をどう付け足すかで、ストーリーの意味が変わる。恋愛小説が、何通りも登場するのは、真ん中があるからだ。
だがこれが「映画」となると、真ん中の表現が小説とは全然ちがってくる。 出会い恋が芽生え、事件が起こり別れ、再会する。再会をハリウッド的にするか しないかは、そんなに重要ではない。映画の文法自体が、再会をドラマティックにする必要性をもたらしていないだけである。彼女の回想にするか、息子の回想にするかも彼女の学歴とは関係がない。それは「彼女」を客体として見ることを可能にさせてくれるだけのことである。問題は、ここでいう「映画的文法」だとおもう。
「彼女を客体としてみる」と僕は書いた。ここにこの作品の急所があると思う。 もちろん私たちは、彼女とともに、青年がもどってくることを願い、櫛が見つかることを 願うことができる。が、そこにこの作品の急所はない。そうではなく、馬に囲まれて 彼女の歩いている姿、中国の古い詩句(だと思う)を青年が朗読するのをうっとり 耳を傾ける彼女の姿が、象徴的に意味を担っている点に、この映画の 急所があると思う。つまり、中国の大地、中国の歴史、過去から恋愛が続いて、この 彼女、その息子がいる、ということが潜在的なものとして見えてくる、それが 見えるようにこの映画は造られている、という点が重要なのだ。 ついでにいうと、眼と眼が通じ合う一目惚れも 恋愛感情の始まりを象徴化しているわけだし、赤色も瀬戸物の件も明らかに意図的だ。 彼女の人選もそこにある。つき合っているうちに味わいがでる娘より、一目で可愛いと 感じるられる娘でないと、この映画はなりたたない。彼女の表情のアップもそれを狙ったのだろう。
この「映画文法」が、ストーリー全体にも貫通している。要するに、「恋愛」という 普遍的ストーリーを子供に語らせる、という手法によって、恋愛が象徴化されている。 だけど、この映画、それが少々あざとくも思う。「教育者」ってのを相手に選んだのも、 ちょっと考えると不自然だ。いかにも中国伝統的文化の流れを象徴化して、文化的意味の 高い作品を撮ろうとする意図がみえみえなのである。 象徴というある意味で写真が得意とする表現を、映画のなかにその骨子となるほど頻繁に多重的にもちこんだことが、この映画の長所にも欠点にもなっていると思う。
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