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[コメント] キャスト・アウェイ(2000/米)

世捨て人とは世から捨てられた人。人生の十字路、青年の顔に戻った男は、さて何処にいく?〔3.5〕

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







be cast away 「難破して漂流する」

cast away 「(物を)捨てる、浪費する」、「(不安や偏見などを)退ける」。

castaway 「難破して漂流した(人)」、「世間から捨てられた(人)」。

迫りくる海面、暗い海の底に沈んでいく輸送機、火を噴き出すエンジン。"死"が物象そのものとなって迫ってくるかのような墜落シーンがまず凄い。放り出された嵐の海から無人島へと漂着するくだりも何の違和感もなくシーンを繋いでみせる。ロバート・ゼメキス監督はCGの使い方のセンスがよいと思う。物語の為に過不足なくそれをもちいる。

漂着した無人島での男の生活、その試行錯誤は、見る者を束の間の思索者にする。五体で存在する動物としてのヒト。彼はありあわせのモノを自己の生存の為に組織する。人間の(時間の)社会から放逐された彼は、孤独な時を(それをやはり時間として組織しながら)、ひたすら生き延びんが為に生き延びる。何故に? 何の為に? そこにあるのは絶望か、希望か。敢えて言えば、どちらでもない。彼は勿論生還することを望んでその為に努力するけれども、彼が放り出されたそこは、人間的な希望や絶望を育む余地のある世界ではなかったから。(偶然は彼に生き延びるだけのモノを与えはしたが、それはどこまでも偶然であるに過ぎない。*1)自殺さえも考える無為の四年間…。だが、ある日突然、ソレはやってくる。一枚の板。現代の人間社会では取るに足らないゴミに過ぎないそれが、彼の希望を呼び覚ます(*2)。そして、出帆。彼は奇跡的に(偶然から*3)人間社会に復帰を果たすことになる。

この映画が、人間ドラマとして何かが物足りないと感じられるとすれば、それは端的に言って、この映画がふつうの意味での「人間ドラマ」を語ろうとはしていなかったからではないだろうか。少なくとも定石の「人間ドラマ」としてそれで良しとしようとは思っていなかったのではあるまいか。

人間社会での自分の物語(時間)を突然断絶させられてしまった男は、だが生そのものを断絶させられてしまったわけではなかった。人間社会に於いて「死」という名の終わりを与えられたのにも関わらず、彼は生きて帰って来てしまった。それはつまり、亡霊として帰って来てしまったようなものではないだろうか。生きながら亡霊である彼は、みずからが経験してきた孤独な時間と人間社会の時間の齟齬を痛感しながらも、その断絶を埋め合わせる物語を生き直すことが出来ない。たとえば愛しの女、あるいはたとえば神(偶然を必然にする物語の装置)。そんなものらに人間社会で断絶した自分の物語(時間)の回復を託そうとすれば出来ないことはないだろう(その方が定石の「人間ドラマ」らしくはなる)。だが彼にはそれが出来ない。何故か? おそらく彼は、孤島での四年間で人間社会ならぬ、だがその基底を為す世界そのものを(人外の世界を)肌身で知ってしまったからではないだろうか。それを肌身で知ってしまった限り、もはや彼は人間社会の物語(時間)を実体として本当には信じることが出来ず、そこに既に自分無しに流れてしまっている他人達の物語(時間)に強引に割り込んでいく(居場所を主張する)ことも出来ない。故に彼は、生きながらの亡霊として、それでもそこにある自分の人生の十字路に立ち尽くすしかない。

人生の十字路。だがそこに独り立つ彼の顔は、決して暗いものではない。何故か。それはおそらく、彼が人間社会ならぬ世界そのもの(人外の世界)を肌身で知ってしまったことで、人間社会の物語(時間)に縛られない真の自由をも暗に見出してしまったからではないだろうか。わたしを取巻き寄せては帰す事象の全ては根本的に偶然でしかなく、それ自体には根拠も理由もないのに、それでもひたすら世界は(わたしは)存在しているということ。それが世界の実相であるということ。その自由は、堪えるには(とくに人間社会での自己の物語に幸福を見出し得ていない者にとっては)恐ろしい真実ではある。だがそれでも、自由は、それを知っているということは、よいことではないのか。届モノを送り届けた彼は、その帰り道で偶然そのあて先の女性とすれ違う。その後に彼と彼女の間に新たな物語(時間)は生まれるのか。それは彼の自由、あるいは彼女の自由、世界におのずから存在する自由の発現なのだ。

1)印象的なのは話相手となるバレーボールのウィルソン。墓に埋められた人間よりも彼(?)の方が切実な話相手となるのは、それが携帯可能な存在だからではないだろうか。いつでも傍らにいて話相手になるからこそ、彼は"親友"足り得る。だが勿論それは真の対話の相手ではない。自分の血で描かれた、自分の分身でしかない。洋上で永遠に別れることになってしまうウィルソンを、主人公は後に畏友のように思い出すことはあるのだろうか。思い出さないことはないだろう。けれど、それはやはり魂を宿した存在としてではあるまい。

2)この時のトム・ハンクスは、孤独だが聡明な猿とでも言ったような動作や表情を見せる。何気に凄いと思う。

3)勿論、偶然とは言っても彼自身の生存への努力がなければ彼は否応なく落命していたはずだ。けれど世界は、彼の力を超えたところで彼に何の関心もないかのように彼を翻弄する。嵐の中で吹き飛んだ板を見た彼の「何故だ!?」という叫びは滑稽なほどに無意味だ。また大洋を漂流する中で鯨が顔を見せるが、この鯨も(時折潮を吹きかけはするが)彼の生還に劇的に寄与したりはしない。万事をこのように描き出すこの映画の視点は、自覚的に選択されたものではないのか。だからこの映画は、都会人がサヴァイヴァル生活の中で現代生活に失われた世界の手応えを見出す、というような物語ですらない。(そんな意味での「世界」は、すでにして人間の世界に他ならない。)生還した彼の「もし事故に遭わなかったら…」という呟きは、偶然の(それによって生起した物語(時間)の)無意味への絶句へとつながる。

(評価:★3)

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