[コメント] ママと娼婦(1973/仏)
ユスターシュのかつての盟友が「彼は映画に移し替えることのできない人生に耐えられなくなったのだ」と語った内が、まさにこの作品に痛々しいまでに刻印されている恐るべき映画である。ポスト・ヌーヴェルヴァーグを代表するフィリップ・ガレルとともに、彼らが創る映画はどれも極私性に彩られ、その赤裸々という言葉を超えた男女のセクシュアリティを冷徹に照射する姿勢は、シネアストの所以たる濃密な映画空間として結実している。この映画をユスターシュの生涯と照らし合わせながら読むとき、そのわずか43年という人生を自らの手で閉じることとなる悲劇性が、この映画にさらなる重みを付与することとなる。この映画を撮りながらユスターシュはすでに死んでいる。ヌーヴェルヴァーグの顔とも言うべきジャン・ピエール・レオーを介しながら、ユスターシュは自らの死に至る病を息も絶え絶えに記そうとしているのだ。それは映画という作品を通した人生の清算にして懺悔のような趣であり、人生=作品が無為の時間の遊戯であることを悲しくも発見してしまった成仏できない幽霊の苦悩のごとくである。それでありながら、ユスターシュはここではまだ生きようとしている分、その悲しさがより強く悲劇的な性格として完膚ない。この後にやがて死んでしまうユスターシュを思えば、その刹那な映画は、レオス・カラックスが看破した通り、「狂気の映画」であり、「そのためにより美しい」のである。このAでもなくBでもないというモラトリアム状態にある人生の孤独は、次世代のアルノー・デプレシャンに受け継がれている。アレクサンドルの言葉の過剰が繊細で壊れやすい自尊心を守るためのものであったとすれば、愚かしくも優しいユスターシュの魂が浮かび上がってきてはことさらに切ない。
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