[コメント] 天空の城ラピュタ(1986/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ラスト近辺、ムスカとシータがラピュタの心臓部で対峙するシー ンは非常に示唆に富んでいる。 ラピュタの力を手にするため、手帳と首っ引きで石碑に刻まれた ラピュタ文字を解読するムスカ。 一方、代々一族に伝えられてきた忌み言葉を、ついに口にするシ ータ。
このシーンは、『ラピュタ』が声の文化と文字の文化の対立を描 いていることを端的に表してはいないだろうか?
つまり、書きしるされた文字を読みつつも、その読んでいる言葉 を音として発することなく視線で追う(黙読)だけのムスカは文 字・活字を基礎とする文字の人間であり、書き記されることなく口伝えに伝えられてきた言葉を、まさに音としてその口から発っしているシータは口誦・口伝的な声の文化の人間なのだ。
重要なのは、このふたつの文化が衝突したときどうなったのか? ということだ。まさに書き記された文字が読めた瞬間にムスカは 滅亡し、秘められた言葉を発した瞬間、シータは勝利している。
「文字・活字」という「近代」を強力に規定している価値観。そ の価値観を体現しているムスカの敗北は、この映画が「近代」を 否定しているようにも見える。 だが、ここで問題になるのがパズーの存在だ。
鉱山という近代社会の基礎となる産業で生計を立てているパズー は、まさに「近代」側の人間だった。だがシータと共に秘められ た言葉を唱えたことで、知らないうちにそれを否定してしまっているのだ。パズーは、そんな自分自身の存在に疑問を抱かないのか? いや、正確に言えば、このようなラストを用意したことに宮崎監 督は矛盾を感じなかったのだろうか?
宮崎監督の内包したこの矛盾はくすぶり続け、ついには『ものの け姫』へとつながっていく。「近代」とそれを否定する価値観の 間で苦悩する『もののけ姫』の主人公アシタカ。それは矛盾を内包したパズーが成長した姿なのかもしれない。
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