[コメント] リリイ・シュシュのすべて(2001/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
この映画で描かれている世界を、自らの体験と照らし合わせて、「リアル」に感じるかと言えば、そうではない。
すくなくとも、自分が生きていた世界では、誰もがこの映画の登場人物の持つ衝動と同じものを抱きつつも、同じ行動を実際には取っていなかった。ギリギリの線で踏みとどまり、飲み込んでいた。それを表出してしまうのは、映画であるが故かもしれない。そうしなければ、何も見えないだろう。
この映画の「リアル」は、「これがリアルだよ」と刷り込まれてきた「リアル」を描いたもののように思える。マスメディアによって散布された架空の「リアル」。その始源を遠く忘れ、虚空をさまよっている「リアル」。それは映像のせいでもあるだろう。様式化された映像とは対照的な生々しい被写体。それが、架空の「リアル」が本物の「リアル」であるかのような錯覚を助長する。
つまりこの映画の世界は願望の具現化(realization)であり、それは羨ましくさえある。
死ぬことや殺すことが救いとなりうる世界。
だからこそ、主人公は星野を殺した。星野の状況を、青猫の状況を、フィリアは知っていた。臨界点に達し、すでにどうしようもなくなっていた星野を解放したのである。「誰も取りに来なかったのか」と青リンゴのことを聞く星野。そのとき星野の居場所は何処にもなくなった。それを見た主人公は決心するのである。星野を居場所のない世界で無為に生きることから解放することを。
津田は、鉄塔から飛び降りることによって、空を飛ぶことが出来たのである。そのときに捨てられたのは穢れた肉体であり、大地に自らを縛り付けていた鎖である。彼らとは対照的に、「つよいひと」である久野は、ただひとり「リアル」を痛々しく受け留め、生きていく。そして、主人公もまた、星野を殺したことで解放されるのではなく、むしろ、その罪の重荷を背負い、生きていく道を選ぶのである。
本当の「リアル」な世界ではあり得ないことが、架空の「リアル」の世界では救いになるのである。
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