[コメント] マルホランド・ドライブ(2001/米=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ALPACAさんは review で、「前半部がダイアンの夢である」という解釈では第3者的な視座のシーンが多すぎる,と述べている。確かに、とその時は思ったが、ぼくはダイアンの夢を語る「超越者」が居てもいいと思う。ベティを空港からこの世に送り込んだジジババは、明らかにダイアンやベティといったキャラクターを超越している。
この映画では、同じ人物の「もう一人」を表現するのに「役者の顔」が重要な意味を持つが(勿論普通の現実世界はそれが当たり前なんだが)、しかし『ツイン・ピークス』で判っている通り、「顔の同一性」が全てではないのだ。その点でウィンキーズの男がダイアンの化身であるというt3bさんの解釈は成る程、と思った。
そしてぼくらの同一性の認識には「名前」も重要な意味を持つ。ヒロインにダイアンと名付けたり、監督や女優のエピソードを絡めたり、またファミレスを出して自分で「ウィンキーズに来たかったの?」なんて照れ隠しするところで、デヴィッド=リンチは全体は自分が統括している「夢」なんだ、と言っているようにも思える(芸術は作家の夢なんだから当たり前といえば当たり前だが)。
ぼくが知りたいのは、殺し屋がチンピラを(苦労の末)殺して奪った「黒い電話帳」は何なのかということと、監督のお母さんのココがリタをみてカミーラだと気付かなかった、或いはベティを見てダイアンだと気がつかなかったのは、リタ(ベティ)がココにとってカミーラ(ダイアン)でなかったのか、それともココが客観的な「ココ」という存在ではない(ジジババのように超越者の一味)のか、… という事だ。
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