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[コメント] カタクリ家の幸福(2001/日)

過剰でもなく、ましてや過激でもない“いろもの”映画。

正直に言えば、三池崇史監督の映画のうちのある作品達のついては、ある瞬間にどれだけ確信犯的に“いろもの”に徹して「馬鹿」を演じて見せてくれているようでも、どうしてもその馬鹿っぷりに“乗せられた”というよりは“付き合っている”という感じがぬぐえないことがある。ふとした隙間に、「はやく次のカットに移ってくれ」とか、「はやく次のシーンに移ってくれ」などと思ってしまっている時がある。“クドイ”というのでも“物足りない”というのでもなく、ひとことで言ってしまえば“ギクシャク”している。すんなりスムーズに流れてくれない。

“いろもの”と言ってもよいだろう一個の作品が、嵌めを外して「過剰」になってみるのはいい。けれどそれはしっかりと嵌めをハメてあればこそ生きてくるのではなかろうか。それが一個の作品であるならば、本当に「過剰」を意味あるものとして実現するにはその過剰を抑圧する「形式」の介在が必要だと思われる。無論ある種の形式を意識的に介在させるにせよ、その形式がその内部で生み出すズレにだけ拘泥してしまうのであれば、作品は形式を弄ぶ単なる一個の観念の玩具に堕してしまうかもしれない(『発狂する唇』)。けれど、では形式のタガ、その意味連繋を曖昧にしつつ演じられる過剰は、果たしてどこまでホンモノ(何モノか)になりうるのだろうか。

その昔、“プログラム・ピクチュア”と呼ばれる映画がまだ日本で頻繁に製作され続けていた頃の無数の作品の中にも、ひそかに現在まで名を残し上映され続ける「過剰」な作品達があった。それらの作品達は、確かに「過剰」であると同時に、けれど“プログラム・ピクチュア”としての形式を踏襲してしっかりとつくりあげられている作品達でもあったと思われる。と言うよりむしろ、与えられた形式とその意味を敢えて過剰に運用することで、それらの作品達は「過剰」を実現しホンモノ(何モノか)足りえていたのかもしれない。

べつに、一個の商業作品が過激(ラディカル)である必要はないだろうし、とくに過剰である必要もないかもしれない。しかし“いろもの”作品が作品としてホンモノ(何モノか)足ることを望むのなら、やはりそれは過剰にならざるをえないのではなかろうか。でなければ、それは所詮は“いろもの”。食み出しものに過ぎなくなってしまう。そして過剰にならざるをえないのなら、過剰はその母胎としての己の形式を十全に生きているべきだろう。

この“いろもの”映画は、けれどどこまで過剰でありえたか。面白いと言えば面白いようで、けれどそれは私にはどこか“付き合っている”という感じがぬぐえなかった。その感じは、本当にふとした隙間にある。隙間風がフッと吹き込むようにその感じはやってくる。そんな隙間風を感じないくらいのホンモノの過剰さは、そこには見出せなかったように思われる。

付記: キャスティングがよい。松坂慶子さんはさすがに女優だ。歌も踊りもしっかりしている。しかもあの歳でOL制服姿が可愛いぞ(俺だけ?)。なんだかもう霊界に片足つっこんでそうなチョト舌足らずな喋りかたする丹波哲郎は相変わらず素敵だ。それと西田尚美はいつ見てもなんか不思議。「可愛い」てんでも「美しい」てんでもなく、色気がこゆいわけでもないのにエロスがないわけでもない…。不思議。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)tredair[*] あき♪[*]

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