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[コメント] 私は貝になりたい(1959/日)

中井−村木の画は黒澤ばりで魅せるが、物語は肝心な処でしっくりこない。フランキー堺はアイヒマンではないのか。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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有名な「私は貝になりたい」の一節、これを僧侶の笠智衆に告白するのであれば判るが、そうではなくて何と妻子への遺言にこう書くのだ。これは判らない。こんなこと書く人の神経が知れない。父の無事を信じて砂浜を陽気に走る子供のショットにこの科白を被せて、何の意味があるのだろう。この子を守るためにも父の不幸を繰り返させるなという反戦の表明、と取るのは難しい。だってフランキー堺は人間に生まれ変わりたくないと、人間に永遠に絶望しているのだから。黒澤が「橋本よ、これじゃあ貝になれないんじゃないか?」と云ったという逸話があるが、この意味ならよく判る。

大西巨人は箆棒な法規の記憶力で軍部の不条理に対抗する主人公を描いた。ジュネーブ条約など聞いたこともないだろう本作の堺の造形と対照的で、学徒か否かの比較がここでも出てくるのだろう。それにしても堺の、人を殺そうとしたことに対する煩悶のなさは、いくら無学な苦労人だとしても極端ではないのか。例えば南京でいろいろやった敗残兵が、あれは上官の命令だったのだと散髪屋で一生終わる図は美しいだろうか。アイヒマンのあれは仕事ですという説明は説得的だろうか。

もっとも、ここは言訳が用意されていて、「肩を刺しただけだ。その時はもう死んでいた」という房中で語られる説明がそれだ。それならば許されるのかも知れない。しかし一方、脚本としては緩く、典型を逃している。本当に殺していないと深い葛藤は描けないだろう。この辺りどうもチグハグで釈然とせず、内向きの被害者意識の方に引っ張られ過ぎていると感じた。日本の捕虜収容所で無茶されたと怒っている人はイギリスにはいまだにいるが、彼等の前で本作が上映できるだろうか。

(評価:★3)

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