[コメント] めぐりあう時間たち(2002/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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最後には、それまで異なる時代を生きる女として描かれていたローラ(ジュリアン・ムーア)とクラリッサ(メリル・ストリープ)が、直に向かい合うことになるのだが、この二人は、ヴァージニア(ニコール・キッドマン)の読者。それと同時に、ヴァージニアが女として味わってきた閉塞感を投影して書いた架空の女、ダロウェイ夫人と同様に、密かな悩みを抱え、更にはパーティの準備に追われている。
この二人は、ヴァージニアの読者であると同時に、ヴァージニアがその孤独な胸中に思い描いていた「もう一つの人生」を生きる存在でもあると言えるだろう。三人の内で子を持たないのはヴァージニアのみだが、彼女が産んだ作品が、他の女たちとの絆を結ぶのだ。ちょうど、リチャード(エド・ハリス)がローラとクラリッサを結び合わせ、クラリッサの娘がローラを受け入れるように。
三つの時代でそれぞれ、ちょっとした日常の仕種、或いは出来事が反復される。反復されながらも、時折そこに小さな、または決定的な差異が孕まれていることで、劇的な効果を上げている。ローラが息子リチャードと作ったケーキを棄てる、という動作はそのまま、息子や夫との生活を放棄したい願望の表れだが、クラリッサが蟹料理を棄てるのは、リチャードの絶望を救えなかったという、挫折の描写となっている。ヴァージニアがメイドを家から追い出そうと買い物を頼む場面で、それを横から覗っている若いメイドが音高く卵を割るのは、ヴァージニアに対する密かな抗議、または彼女らの間の亀裂の暗喩。クラリッサが、パーティの準備をしながら友人と話しつつ卵を割るのは、会話が苦痛であることや、やり場のない哀しみを感じさせるが、その友人ルイスのことが、リチャードの自伝的な小説に、元恋人であるのに少ししか書かれていない、と呟いて、そっと卵の黄身を器に入れる。
同じようなショットでも、そこに込められた感情、或いは意味合いが、微妙にニュアンスを異にしているのだ。部屋を飾る花束。予定よりも早くやって来た客に漏らす本音。女同士、唇を重ね合うキス。こうした地味な所作に、女たちの密かな感情を託す手法は、平穏な日常に抑圧され、息苦しさを抱える女たち、という主題の描き方として、正しいものだ。
ヴァージニアは、ダロウェイ夫人を自殺させるのをやめ、代わりに詩人を、「命の価値を際立たせる為に」死なせると言う。それをなぞるかのように投身自殺する、詩人のリチャード。彼はその小説で母を死なせるのだが、現実の母ローラは、彼の死後、クラリッサを訪ねて来、息子を見捨てることでしか自分は生きられなかった、と告げる。ここに、皮肉で、哀切きわまる反復がある。生を選びとる為の選択が、別の生を奪うという形を取らざるを得ないということ。反復とは、同じ物事の単なる繰り返しではなく、反復によって、反復されるもの自体に最初から含まれていた亀裂、齟齬、差異が、或る一つの形で顕わにされるのだ。
ラスト・シーンでの、ヴァージニアが夫レナードに宛てた手紙は語る――「レナード、私たちの間には、長い年月が。常に愛が。常に、時間(hours)が」。リチャードは、身を投げようとする彼にクラリッサが言う「パーティには出なくていいわ。授賞式にも」という言葉に応えて、こう言った――「それでも時間(hour)はやって来る。パーティの時間も、その後の時間も」。パーティの時間がやって来る、とは、パーティに出ようと出まいと、他人が集まり、何かを行なおうとする、ということ。そこに参加することを避けようとも、それを避けた、という自分の行為からは逃れられないのであり、他人と関り合う、という意味では、「パーティの時間」は常に訪れるのだ。私たちの間には、常に時間(hours)が。
ヴァージニアもリチャードも、共に自らの生から解放されたいがために死を選んだのだが、リチャードの存在は、物語上、重要だ。女たちの人生を描くのを主軸にしたこの映画だが、単に女性の閉塞感を描いていたのではない。性別による社会的な枷を描きながらも、同性愛の要素を加えることや、男性であるリチャードの苦悶によって、それぞれ一個の人間として孤独を抱えているのだという、より普遍的な主題へと繋げている。
更に、賞という栄光に包まれているリチャードが、それを軽蔑し、今、この瞬間の時間を書きとどめることが出来ないという苦悶に苛まれていることで、執筆という行為もまた救いにはならないことをも示しているのだ。これは、ヴァージニア・ウルフという実在の作家の作品をモチーフにしていることを考えれば、非常に大事な点だ。
冒頭のスタッフロールに名が出るまでもなく、一聴してそれと分かる曲調の、フィリップ・グラス。個性的と言えば聞こえはいいが、ワンパターンだという言い方も出来る。僕は彼の曲をそれほど聴いてはいないが、キャッチーな旋律で一瞬耳を引くものの、単調な繰り返しで、すぐに飽きさせられる作風という印象だ。他の反復音楽、ミニマル・ミュージックの作曲家たちは、最小限の要素の反復が繰り広げる展開の妙で聴かせる者が多いのに対し、グラスは本当にただ反復しているだけで、物足りない。だが却ってそのせいで、映像と喧嘩せずに上手く馴染んでしまう面がある。
本作でのグラスには、過剰に感情を煽ることなく、ただ場面ごとの緊迫感だけを伝える、一種、客観的とも言える曲調に、概ね好感を持った。グラスの曲をかけた映像は、その疾走感に拍車がかかり、次々とショットを見せていくのには効果的だ。その半面、本作では所々で、快速の音楽が映像の上を横切るというか、滑走していくというか、素材としてのショットが持つ劇的な質感に観客の感性を沿わせることをせず、次々にショットが送られていく編集の流れにばかり意識を引きつけがちな所も見受けられた。
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