[コメント] ボウリング・フォー・コロンバイン(2002/カナダ=米)
政治色の濃い映画というのは評価が大きく分かれるものだ。日本のドキュメンタリー映画の歴史はもっと内面的で、一極集中型だ。今村昌平の『人間蒸発』(これをドキュメンタリーと呼んで良いのかわからないが・・・)とか、原一男の『ゆきゆきて、神軍』や『全身小説家』、あるいは小川伸介の一連の作品群など、非常にストイックに現象や人物を追い込んで、時間をかけて練り上げる。これが日本のドキュメンタリーと言うべきだろう。
少し嗜好は異なるがヴェンダースの『東京画』なども日本のドキュメンタリーとは異なる。日本を見ている映画にもかかわらず、異国情緒が漂う。その当時の日本と小津安二郎が映画で描いていた頃の日本を比較するかのごとき映画だが、日本人が見るとすっかり外国映画である。これまた不思議だ。
そして本作だが、やはり西欧人のドキュメンタリーに対する考えは「積極果敢」そのもの。日本でいう「突撃取材」的な映画である。これほどつっこんで色々アタックされるとそれが滑稽にも思える。チャールトン・ヘストンとの対峙、これがこの映画のクライマックスだが、これはこの映画の一部分でしかない。ヘストンをターゲットに映画は構成されているものの、実はウォルマートにしても何にしても、「矛盾」に対して積極的にぶつかってく。
ドキュメンタリーの手法としてこの違いは単純に民族の違いなのだろう。狩猟民族と農耕民族の違いだ。狩猟民族のドキュメンタリーは積極果敢である。しかしいずれが良いとか悪いという関係ではない。民族の抱える違いだからだ。カナダ人が玄関に鍵をかけないということと、日本の田舎でいまだに鍵をかけないということとは異なるのである。
しかしこれは作者の矛盾でもあって本人も自覚しながらカメラをまわしているところが信頼できる。コロンバインの事件はこの映画の作者そのものとも言えるからだ。作者も加害者あるいは被害者になりうるのだ、というところがこの映画の真実を下支えしていると思われる。
日本にも都市と地方の格差があって、その格差が見えない矛盾であることをなんとな〜く多くの日本人は自覚しているのだが、これだけ犯罪が増えても、その究極の原因がどこにあるのかは知ることができない。
アメリカ人は今もこれからも大変な矛盾と戦ってつかなければなるまい。一部のエリートに支配された国家は、その階層、その人物の利益のためだけに国民が存在し、シビリアンコントロールされていることすら自覚していない。日本もまたそこを目指そうとうのだからあきれるが、マイケル・ムーアはこの映画で様々な矛盾を「銃」というキーワードを軸に反戦活動を行っているようにも見えた。自分で結論をださずに、思いのまま「銃」についてアタックしている。
大変好感の持てる映画でした。
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