[コメント] ゴスフォード・パーク(2001/英=米=独=伊)
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群像劇の場合、アルトマンは個別の人物が個別の都合であれやこれやを為している様を点描風に描写する事だけを楽しんでいるように見えるが、専ら表面に現れる関係性だけで描かれる人間たちの皮相な生態など僕にはあまり面白いと思えず、眠気を誘われる事も多い。数多い人間にドラマが拡散してしまう「集団肖像画」で、本作のように親子の情念といったドラマを演出するのは無理がある。
あの写真立てが映った時点でどうせ、居眠りしている観客以外は犯人が凡そ予測できてしまうのだから、ゴスフォード・パークを陰から管理する当のミセス・ウィルソンが館の主人を殺害せざるを得ない悲運に、徐々に焦点を絞っていくべきだった。だがアルトマンは、いつもの通りに各人物たちの言動をその都度追っていく群像劇スタイルを貫いていく。
ミセス・ウィルソンは、賓客の付き人たちを彼ら自身の名で呼ばず、それぞれの仕える階上の人々の名で呼ぶ。付き人たちの匿名性。他ならぬそのミセス・ウィルソン自身が、我が子への愛情の為に密かに殺人を犯し、母親として名乗り出る事も自らに禁じる。陰の仕事に携わり、陰の女として私生児を生んだ彼女は、殺人者として更に陰の陰へ自らを没していく。
だがそうした事は脚本の構造として後から振り返って了解できる事でしかなく、映画としては単に想定内の真相が最後にポンと明かされて終わり、というだけでしかない。演出の焦点が各人物にほぼ平等に合わされているせいで、個人の情念が特権的に立ち上がってくる機会など生じようがないのだ。ヘレン・ミレンの熱演だけでミセス・ウィルソンという人物が明瞭な輪郭を得るなどというほど簡単な話ではないだろう。
幾人もの人間が殺しの動機を持っているように描かれているが、彼らが本当に殺しの衝動を抱いているような切迫感が弱い。「誰もが殺し得る」というより、「誰が殺していようとどうでもいい」映画。
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