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[コメント] マトリックス レボリューションズ(2003/米)

マトリックスとは何なのか
たかひこ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







さきほど、シリーズ3作をたてつづけに鑑賞。過去にバラバラに見たときよりも、より深く理解でき、発見もあった。

やはりマトリックスはすごい。SFアクションであると同時に、哲学というよりはむしろ社会学的な現代批評にもなっている。そしてその二つが絶妙なバランスで組み合わさっており、対象を選ばない。つまり、大衆と知識人、どちらにも不快でないほどの「長さ」で、「アクション」と「フィロソフィー」が入れ替わるのだ。しかもその両方が、新しい。批判するならば、相対的に論じてもらいたい。かつてこれほどに痛快なアクション映画や、痛烈な批評性をもった映画がどれだけあったのか。ただしロマンスとしては駄作である。

本論だが、そもそもマトリックスとは何なのか。作中では「マシン」が、「人間」の「思考」という行為から電気的なエネルギーを取り出すための仮想空間ということになっている。今、目の前に広がっている現実が虚構であることに気づき、そのようなシステムから飛び出したのがネオたちということになる。つまり、ネオは現実を「疑う」ということから出発している。

ネオは預言者に会う。ここで「信仰」というものが問題になる。予言は、客観的には事実となるかわからない。それを聞き入れるという時点でそれは「信仰」である。実際、預言者を慕うモーフィアスは至る所で「信じよ」という。モーフィアスは「信仰の人」である。だが、ネオはそうではない。預言者にいくつもの質問を投げかけ、懐疑的である。そして結局は預言者に「そうでないと告げられたにもかかわらず」ザ・ワンとなった。ここでもネオは疑っている。それはある意味で「信じる」ということである。他のあらゆるものは疑わしい、逆に言えば、自己の認識こそ真である。ネオは自己の認識だけを信じた。だからこそ、彼はザ・ワンとなれたのだ。

ネオは預言者に問う。あなたは味方なのか、と。預言者はソースに行くよう促す。そうすることが預言者の「目的」だったのだ。メロビンジアンは「因果」「理由」ということをしきりに口にする。そのようなものと対決し、ネオはキーメイカーの協力を得、ソースに到達する。

そこでネオは理解する。ザ・ワンとはいわば、マトリックスにとっての危険を予告する警報である。全てを疑うものがたどり着く場所、それがソースだからだ。アーキテクトの言うとおり、この時点では預言者はコントロール側の装置だった。預言者は予言という形で試している(予言は必ず「ある選択」をするという形をとっている)。予言を信じれば、コントロール可能ということだ。だが、ネオは信じなかった。提示された「選択」外の真の「選択」をした。だからこそ、ソースに到達した。コントロールを拒絶するアノマリーの極大化を「選択」は示す。

ここでアーキテクトは新たな「選択」を提示する。過去の例と同様に「選択」が行われ、ザイオンが「リロード」されればそれでよい。しかし、「リロード」されないならば、人類はついに制御不能だということだ。だがその様な「選択」もネオは拒絶する。そのような「選択」は「マシン」側からあたえられた枠内での「選択」でしかない。ネオはザイオンの「リロード」ではなく人類滅亡とされる扉を開くが、絶望したわけではない。その後も自らの「目的」を考え続けている。

「マシン」とは「因果」関係の塊である。機械工学と情報工学が複雑に絡み合い、決して一般人にはその構造を理解することができない。そのようなものと、ザイオンは戦闘を始める。だが、ネオは自らの「目的」は他にあると考えた。装置に過ぎなかった預言者は、自ら「選択」を行いエグザイルとなり姿を変えていた。その預言者と面会し、ネオはスミスこそがもっとも打倒すべき対象だと気づく。むしろ、スミスは「マシン」側にとっても害である、そのようにネオは考えた。

ネオは徹頭徹尾あらゆることを疑う、考える主体として存在している(Anderson=Understand)。その意味で、NeoはOneであった。Oneとは、卓越したものとしてのOneではない。単に1という意味である。だから人々は、誰もがOneになる可能性をもっている。ネオは、他のものたちが考えているような信仰、選択、目的を拒絶する。それらは他者から与えられたものに過ぎない。ネオは本当の意味での「信仰、選択、目的」をこそ求めた。スミスは「因果、必然、理由」側のマトリックスが生んだ、目的を失って自己増殖した何かである。だから、ネオとスミスの対決は「信仰、選択、目的」VS「因果、必然、理由」と言い換えてもいい。それらがドローになることが重要である。決戦の舞台は大都市である。

結論を言えば、マトリックスとはわれわれの経済システムのメタファーだ。経済は信用からなりたっている。それはいわば、平等な交換が行われているという「信仰」である。だが、実際はそうではない。システムの上位にいるもの、すなわち、より複雑な「因果」関係をより多く行使できるものがそれ以外のものを支配し、全体を運用している。それゆえに利潤の分配は常に恣意的なものとなる。それは科学的「必然」ではあるが、人々の「目的」を実現しはしない。しかも経済が進むにつれて、つまり、交換が行われればそのたびに、その差はより大きくなるのだ。複雑な因果関係を知るものと知らないものの関係が蓄積して巨大な不平等となる。それは具体的に言えば貨幣が交換を経て自己増殖するということだ。もちろん不平等が現前化し「疑う」ものが増えることによって信用が薄まれば恐慌は周期的に訪れる。しかし恐慌は経済の全体の規模を縮小しても不平等な関係を解消しはしない。より苦しむのは多数の従者である。かといって共産主義においては因果が否定されてしまう。両方をあわせればいいというものでもない。一度始まってしまった資本の運動はほとんど止めることができない。革命は容易には成就しない。

因果律は膨張し、われわれに交換を強いるだろう。そのときわれわれは因果律の一部となり、歯車となってその中に取り込まれるのだろうか。拒絶するならば、われわれの一人一人がOneとなるしかない。マトリックスという作品は、革命の可能性を示唆しているのだ。

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