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[コメント] 昭和残侠伝 唐獅子牡丹(1966/日)

障子に飛び散る血の飛沫。白羽を受ければ火花も散る。ド本気クライマックスの殴り込みシーンの一大カタルシス。欲を言えば、石切り場をバックにした刀のアクションは、画的少々見栄えが悪いかな、ということ。 2007年2月22日DVD鑑賞
ねこすけ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







シリーズ2作目。今回は、昭和の初め頃の石切り場が舞台。その石切り場をバックにしたアクションは、壮大に思えて、若干チープさを感じてしまい、そこが、非常に残念。わざわざそんな西部劇みたいな場所に出て刀を振り回さなくても、高倉健は日本家屋の中で刀を振り回し、池部良が一緒に横で戦っていれば、それで十分魅力的なのだから、わざわざあんな所でアクションを見せる必要があったのかどうか、そこが一番の疑問で、残念な点。

ただ、1作目のように「ただ耐える」という構図から、今度は「過去の負い目を背負って生きる」というテイストと、更に、「過去、親分を殺してしまった組に肩入れをする」という構図が加わり、1作目よりも物語自体は若干の複雑さと、深みが増していて、中々の見ごたえがある。

さらに相手方の親玉も、あくまで職人気質で石(ショバ)のためなら命張って生きている人間であり、その点で一本筋が通っており(或いは、高倉健との約束を(一応)守って、駆け落ちした津川雅彦夫婦に手を出していない所も)中々の好漢。下手に極悪非道に描くよりも、こういったパーソナリティの悪役の方が、個人的には好き。

この優勝劣敗原則を信じる、社会ダーウィニズム主義者の左右田組組長のやり方は、一本筋を通しているようで、通していない。通っていないようで、通してある。この絶妙なバランスが、悪役としての深みを与えており、高倉健が守ろうとする「渡世の仁義」と、そして関東榊組と組合長が守ろうとする伝統との対立に色を与える。

今回もまた、この両者の新旧対立が非常に面白い。

1作目の対立軸は、旧秩序と新秩序の対立であった。しかしその結末は非常に複雑で、殴り込んで相手組を潰したとしても、「マーケット」の構想の正しさと、「組」がある――即ち、旧秩序を守ろうとする――ことの古臭さと、それによってもたらされる不毛な争いについてが描かれており、単純な「組対組」という対立ではなく、非常に奥深い物語になっていた。

この2作目の対立軸は、それに比べるといくらか単純化されて、分かり易くなってはいるものの、相手方の左右田組の親分の思想――優勝劣敗主義に基づいた行動原理――とその生い立ち――関東榊組で下積みをして、自ら手に技術をつけてから独立し、そして関東榊組を凌ぐ勢いで、合理的に事業を拡大してく――という設定が非常に面白い。

そこは、ただ「腕」だけが物を言う社会で、今日のように学歴秩序によって権力構造がハイアラーキー化された社会ではない、完全メリトクラシー社会なのだ。

ここでもまた、前作同様に製作サイドは見る側の倫理を揺さぶっているのではないだろうか?

つまり、左右田組の組長の生い立ちを示すことによって「なんて非道な恩知らず!」と誰でも思いこそするかもしれないが、彼の行動原理は決して間違いではないはずだ(その原理によって導かれた行動そのものは、相手を妨害しているわけだから非道だが)。彼は単に、技術を得て、長い下積みを経た後に立身出世を果たそうとしているわけであって、それは当時この映画が公開された時代(66年)の人々のアスピレーションに相似の体系であったとは言えないだろか。

勿論、この時代設定当時(昭和初期)の人の方がリアリティがあったかもしれない。66年当時の人々は、この時代の人々よりも、高等教育進学率が高いわけだから、この手の立身出世経路を辿ろうと目論む人の割合は、単純に考えると、昭和初期の方が多いはずだから。いやしかし、言ってしまえば、このような行動原理はある意味ベンチャー企業的発想とも言えるかもしれないので、現代にも十分通じる普遍的な物と言えるだろう。

つまり、左右田組組長の行動原理としての社会ダーウィニズム的優勝劣敗主義的な考え方は、十分リアリティを持っている物であって、それは単純に「悪」として切ることは出来ないものであったはずではないだろうか。

この善悪つけ難い存在に対して、旧社会的秩序(縁)を至上として、争いを好まない関東榊組と、組合長。宮内省(そうか、当時は「宮内省」だったのか・・・)からの以来を、組合長は、新興の左右田組ではなく、伝統ある関東榊組に(無根拠かつ、仕事が達成できるかどうかの保障も無く)以来する。

この合理性に欠けた横の繋がりを重んじる伝統社会秩序と、それを象徴する高倉健――彼は、恐らく「人(榊組の親分)を殺してしまった」ことを悔やんでいるのではなく、「(外道の)左右田組の下で、榊組の親分を殺してしまった」(=左右田組に協力して、「筋」を重んじる人々(榊組)を貶めてしまった)ことを悔やんでいるのだろう――が同調し合いながら――途中に池部良という、これまた合理性よりも「筋」を強調する男まで含んで―左右田組との一大抗争が遂にクライマックスを迎える。

果たして、どちらが本当に「善」なのだろうか。

ただのプログラムピクチャーとして見れば、それは当然高倉健が「こちら側」で、左右田組が「あちら側」なのは明白なのだが、問題は「時代」というものだ。

「昭和」という時代は、この国が大きく動いた時代だ。15年戦争にしてもそうだし、戦後の高度経済成長だってそうだ。

この映画は、その昭和の「前半」を舞台として、その「後半」に劇場公開されている作品だ。

1作目の「マーケット」の件にしてもそうなのだが、深読みしすぎかもしれないが、この映画をどうしても単なるプログラムピクチャーの枠で扱ってはいけないような気がするのだ。

高倉健は何を守ろうとして殴りこみに向かうのか。そして、その相手は一体何なのか。何よりも、本当に、相手の「外道」は、心底「外道」の野郎なのか。

「筋」と「時代」が対峙する。

そこに飛び散るのは、血飛沫。火花。

その先に見えるのは、新たな未来か、それとも優勝劣敗の原則に支配された良くも悪くもメリトクラティックな社会か。

昭和残侠伝

凄いタイトルをつけたものだ。改めて、この2作目を見て、そのタイトルのセンスに脱帽する。

そして、全共闘の学生らが『昭和残侠伝』を見て、ゲバルトに向かう士気を高めたという逸話の理由が何となく分かる気がしてくる。

全共闘運動に関して、林健太郎(東大紛争当時、173時間軟禁された(当時)文学部長)は、当初の運動について、こう述べている。

「紛争が最初に起こった慶應や早稲田の授業料値上げ反対とか、東大の場合の学生処分撤回とかいうような具体的要求があった」としながら、その後は「観念的標語がその陣営の中から聞こえてくるだけであった」として、全共闘を「積極的に何か新しいものをつくり出すことにおいては何の能力も持っていなかった」と書いている(林健太郎『昭和史と私』文春文庫)。

「筋」だの「仁義」だの何だのと言おうと、そしてそれがどれだけ伝統的な「道理」に適っていようと、具体性に欠いているのだ。そこで「美学」などと持ち出そうと、それは所詮観念論であって、創造的ではない。

1作目で、高倉健の関東神津組が、相手の組に「マーケット」の構想で先を越されて遅れを取って、結局彼らを真似て自分たちも「マーケット」を建てようとしたのもそうだが、伝統と格式からだけでは、新たな物は創造されないのではないだろうか。

この2作目、高倉健と池部良が相合傘で殴りこみに向かうシーン。

「ここであんたを行かせたら、榊組の面目が立ちません」

「あっしはまだ、幸太郎親分に本当のお侘びはすましちゃいねぇんです。せめて顔向けの出来る男にしてやっておくんなさい」

確かにカッコイイが、どんなに気取っても、観念的なのだ。野暮を承知で言えば、「面目」って何ですか?「本当にお詫び」って何ですか?って話なのだ。それは、殴りこみに行くシーンで流れる高倉健の「唐獅子牡丹」にしてもそうだし、その演出そのものが「男」を強調すればするほど、映画で描かれる「善対悪」が強調され、「悪どく自らの利益を追求する人間」が「悪」として演出されるゆえに、分かりにくくなるが、結局、この殴り込みでは何も得られてはいないのだ。

ただ、殴りこんだことによって、自らが警察にしょっ引かれるだけでしかない。具体的ではないのだ。ただ「仁義」とか、そういうものであって。

そこで一歩妥協して、自分たちが古いことを自覚し、そして新たな道を考えていこうと決意した時――例えば1作目の「マーケット」構想に関して、高倉健ら関東神津組は自ら「解散」の道を選んで、そして「マーケット」建築=エンコ浅草の新しい未来に尽力していく様子――新しい社会、即ち、合理性をただ追求するだけでも、まして「筋」のみを気にするだけでもない社会が構築されてゆくのではないだろうか。

この映画では、あくまで高倉健が主人公であるから、「筋」のかっこ良さなどが強調されるが、「時代」は、そうではないのだ。特に戦後の高度経済成長という時代においては、観念的な「格好よさ」だけではダメなのだ。

この映画シリーズは(まだ3本しか見てないけど)、「時代」(「昭和」)と、そこでぶつかり合う二つの新旧価値観の対立を見事に描いている。そこでは、絶対的な「正しさ」などは存在しない。

そこに取り残された唐獅子牡丹。まさに「背中で泣いてる、唐獅子牡丹」である。

かなり余談が過ぎたが、作品そのものは、クライマックスのアクションシーンがどうにもこうにも、石切り場をバックじゃ、ちょっとチープだよなぁ・・・って印象なので、作品の肝がこれじゃあな・・・ということで★1つ減らして★4でシメさせてもらいます。

(評価:★4)

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