[コメント] アカルイミライ(2002/日)
『CURE』や『蛇の道』で顕著だったような、それ以外にはありえない絶対的なカメラ・ポジション/アングル/ワークは確認できず、それは意図的なものであろうと思う反面、この物語に対する黒沢の戸惑いの反映であるようにも見える。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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「距離」と「身体」の演出について、気のついたまま取り留めなく記しておく。
笹野高史がテレビの卓球を見るシーンでの、笹野と浅野忠信・オダギリジョーとの間の断絶。それはまず、物理的=身体的距離として顕れている。自動車ショットにおける画面分割は車内の二人の距離(あるいは助手席の「不在」)を強調するだろう。面会シーンでの真横からのショットが画面中央に捉える「仕切り」はどうか。身体的距離の近さ、しかしそれを越えることを阻む「境界」の、残酷な可視化。一方、浅野の自殺は浅野とオダギリの間に縮めることのできない絶対的な距離を生じさせるだろうが、「行け」の意思(遺志)は藤竜也を介してオダギリに伝わる。すなわち「絶対的な距離」にもかかわらず、それを越えるものとしての「行け」の身体的サイン。そして「許し」は身体的なゼロ距離=抱擁とともに訪れる。だが、それはこの映画におけるもうひとつのゼロ距離=クラゲとの接触、が死をもたらすこととの関係で考えられるべきものかもしれない。
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