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[コメント] あの夏、いちばん静かな海。(1991/日)

最悪なのはこの監督は障害についてまったくどういうことか理解してないってことだこの偽善者め。
G31

mirrorさんのレビューに私のコメントへの批判があります。mirror氏自身も反論を期待しているようなので(正確には反発を覚悟、とおっしゃってるだけですが・・・)、私からも言わせていただきます。映画とは直接関係ないので、興味のない方は捨て置いてください。mirrorさんも気軽にお読みください。

***

※以下、≪≫内はmirror氏のレビューからの引用です。

≪反発を覚悟で言うと、障害者に対する理解が欠けているという批判があるが、良い映画を撮るためにそういったものが足枷となることは悲しいと思う。もちろん、障害者に身近に接している人にとっては、そういった無理解な表現を目にした瞬間、映画に対して引いてしまうのはわかるが、そういったことを映画の質に対する評価に持ち込むことは、同時に表現の幅を狭めることになるのではないだろうか? ≫

私には当たり前のことに思えるのですが、障害者を描いて良い映画を撮ろうと思ったら、障害についてどういうことなのか理解することは、決定的に必要です。なぜ、障害者に身近に接していない人が、障害を使って映画を撮ろうとするのでしょうか?障害者に対する無理解、差別、侮辱を垂れ流しにして平気でいられるような表現が、「表現の幅」を広げるものだとは私にはまったく思えませんが、そんな表現なら幅を狭めるどころかこの世からすっかり削除してしまって構わないのではないでしょうか。侮辱のための表現の幅を確保することより、無理解が垂れ流されることの方がよっぽど悲しいことだと私は思います。もう一度書きますが、なぜ障害を使って映画を撮るのですか?

≪「障害者を理解していない」という主張はすなわち「事実と異なる」ということである。そして、この主張を拡大するならば「映画はノンフィクションでなければならない」という帰結を導く。しかしこれは、「障害者を理解していない」と非難する映画ファンたちの望むところではないはず。この問題を解決するには逆に「映画はフィクションである」という考えを拡大し、ここで描かれている障害者はフィクションの産物であると考えるべきである。≫

人の主張を勝手に拡大解釈すると面白いことが起きるのですが、mirrorさんの主張はつまり、映画はフィクションであり事実に即して描く必要はないので、映画の中で描かれる障害についての無理解が、障害者に対する差別を助長し、侮辱を垂れ流すことになったとしても、そのこと自体はまったく問題にならない、要は映画の質が高まればいいのであって、映画の質が高ければ、差別も侮辱も全然オッケーだ、ということでしょうか。これはあらゆる映画ファンの望むところではないはずです。・・・冗談はさておき、私は、フィクションであろうがノンフィクションであろうが、障害者を描くなら障害について理解する必要がある、と主張しているのです(当たり前でショ?)。この点はおわかりいただけますでしょうか。その上で、障害に対して無理解なまま障害者を描いて平然としている北野武監督を、偽善者だ、と批難しているわけです。

もっと突き詰めて言うと、「事実と異なる」という以前の問題として、思いやりがない、配慮がない、想像力が足りない、ということももちろんですが、この監督は「人間に対する洞察力が欠如している」のではないか、という疑念を抱いているのです。ですから私の中では「偽善者」という言葉もまだやわらげた表現なのですが、芸人・ビートたけしは面白かったし、以前以後の映画作品でそれなりに良かったものもあるので、さすがにそこまではよう言い切らん、という感じなのです(私自身、そんな洞察力がないことを露呈していますが)。

別に弁護するつもりはありませんが、人間というものは、自ら作り上げた社会があまりにも巨大化し複雑になって、社会の全体像を正確にイメージ出来ないという意味において、想像力の欠如に支配される動物だと私は考えている(私の独創というわけではありませんが)ので、ある種の諦観を持っているのも事実です。

私のコメントのもつインプリケーションについてご理解いただければ幸いです。(02/01/07)

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お暇な折にでも、mirrorさんの再反論を頂戴できれば幸甚です。

(評価:★2)

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