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[コメント] アメリカン・ビューティー(1999/米)

「アメリカの美」を越えた「美」。
ちわわ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







文化の違いとか、現代アメリカの病根だとか、そんなもんじゃなくて、 もっと本質的な「美」を探究した映画だと思う。

道ばたであったひとりの女性が、一瞬美人だと思ったが、よく考えると違う、というケース。ある芸術作品が美しいかどうかを検討しているといったケース。

こういったケースでは、美は比較され吟味されている。美はある場合は、価値に等しくなる。芸術の価値を巡っては侃々諤々と論争もなされうる。 女性の美を巡っては流行的な要素も強いだろう。80年代の少女の髪型はいま 美しくない。

しかも美は、「立派な人生」といったイメージとも結び付くようだ。 古代ギリシャのヒッピアスは、美を少女、金などとイメージしたあと、最後に 立派な人生をあげた。立派な人生。この映画の妻がイメージする美。

でも何気なく美しいものは何か、って訊くとイメージするものはみんな似ている。 いきなり動物の死骸を上げるひとはいない。花(american beauty?)、宝石など輝くもの、若い異性あるいは同性。こういったイメージに普遍性はどこかないだろうか?形容詞「美しい」から派生した名詞に過ぎぬ「美」にはどこか実体性が ある。だから人間にとって美は問題なのだ。

ところが花だって、実際に目の前にある花を美しいというときには、本当に それが美しいのかどうかわからなくなる。これは宝石でも女性でもそうだ。 単に周りの状況がそういわしめているだけではないだろうか?言葉にした 瞬間、もう美は美ではない。美は信じられるものである。

この映画で、隣のオタク君のビデオだけが、そういったイメージとは明らかに違う現象としての美を示していると思う。

どうして舞っている袋が美しいのか、死んでいる鳥が美しいのか? 普通、美しくない。美しいとはおもわない、と書いているひとは正常である。

だが、それが「美しい」のは、おそらく、 この映像が、私たちの生活、私たちの意識の 絶対的な外部にあるものをうつしているからではないか。

人間にとって、花や女性、あるいは宝石の輝きが美しいのは、それらが なんらかのありかたで意識の外部を示しているかぎりで、「美しかった」 はずなのである。実は美はあらゆる場所にあるのだが、意識されない だけなのだ。

映画にもどろう。人間が信じようとする様々な美のイメージは、人間同士 さまざまな諍いをもたらす。アメリカの病根などではない。日本人にも 別のかたちで見られるあらそいである。 でも、最後には、そういった美のイメージの背後へと物語は向かう。 主人公があこがれの少女の肉体を目の前にしたのち、浮かび上がるのは イメージの背後にある美自体なのだ。またそう理解していかなければ ならない。この作品の、様々な演出もそういう角度で理解できると思う。 主人公の死が告げられる理由も、俯瞰ショットの意味も。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)埴猪口[*] ina[*]

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