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[コメント] 華麗なるギャツビー(1974/米)

レッドフォードのギャツビーは、それはそれで「あっていた」と思う。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ギャツビーは徐々に財をなしていく過程で、いずれ訪れる時のこと、すなわち「彼女の前にどういうふうに姿を現してやろうか?」を日々思いめぐらせていたことだろう。彼が選んだ方法は、夜な夜な自宅でパーティを催し、自分は会場に現われず、宴の明かりを背にただ対岸の彼女の屋敷を見つめることだった。これ、映画を観ている時はピンとこなかったのだが、多くの方が指摘されているとおり、ギャツビーがもっと野心的で、上流階級に対しコンプレックスを持っているような人物だとすると、すごく腑に落ちる。

つまり「向こう岸では何をやっているのかしら?」と、彼女の関心を買おうとしていたわけだ。上流階級にのしあがった今、自ら社交界へ顔を出していけば、彼女と接触する機会はいくらでも訪れるはずなのにそうせず、わざと自分の正体を謎めかし、関心をひきつけようという目的と同時に、自分から行くのではなく相手にこさせようとするプライド、金のために裏切った女と上流階級への復讐心、のようなものがこのやり方には感じられるからだ。そういうところに食いつく女を嫌っていないし、「彼女がきっとパーティの明かりに釣られてでてくるだろう」という思考がすでに、金にまみれたものの発想というふうに思えるのである。彼は対岸を見つめながら「夢の光跡にようやく辿り着いた」と感慨にふけり葉巻をくゆらせたのだろうか? 「すでに遅きに失していたのだ」という結句も達成感に浸っているギャツビーに向けられたとしたほうが納得がいく。

レッドフォード演じるギャツビーはコンプレックスや野心を感じさせない、金にまみれた感じがしない。そのほうが彼の純真が金の力で汚されていったという感じが強くなるし、映画ではそういう狙いがあったように思う。レッドフォードは、彼女を迎え入れるために心ならずも金儲けに走るが、どこかそういう自分や社交界の人間たちを寂しく感じているようなキャラで演じてしまった。そんなんで金持ちになれるか?、ある意味ファンタジーだ。しかし彼は映画版ギャツビーを演じきってしまったように思う。

おそらく多くの場面で原作どおりの設定がそのまま用いられているだろう。冒頭のギャツビー登場のシーンを始め、映画版ギャツビーのキャラクターからは原作ギャツビーのような行動をとることに矛盾を感じるような場面が多くあったように思う。しかしレッドフォードのギャツビー像は一貫性があったように思う。そのシーンそのシーンごとにどういう表情をするべきなのか、作品をトータルで把握して、しっかり演技プランを持ちながらやっていたように思う。さすが監督をやる人だけのことはある、と感心した。

(評価:★3)

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