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[コメント] アルプススタンドのはしの方(2020/日)

最後まで地方大会の1回戦の話と信じて疑わなかった。ああでもアルプススタンドは固有名詞だからそうなるわけだ。なんかがっかり。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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「しょうがない」は、本来は方法(仕様)がない、という意味だから、未来を見通して発語されるのに適切な言葉なのに、なぜか「方法がない」だから「あきらめる」という意味のほうが強くなってしまった。類語の「しかたがない(仕方がない)」を使う時よりも、一層諦めるという語気になると感じる。この言葉を、本来の用い方にしたがって「未来を予測する言葉」のように「諦める」という意味で用いると「諦めさせる」という意味に転用される。「しょうがない」は「諦める」ではなく、むしろ「(自分に言い聞かせることも含めて)諦めさせる」というニュアンスになってしまう。おそらく日本人が日本社会で生きていくうえでそれが必要な感覚だったから言語化されたのだ。

まわりくどくなったが、何を言いたいかというと、「しょうがない」はかなり圧力のある言葉であって、失敗したり試行錯誤しながら経験を積むべき若者は特に使ってはいけない類の言葉なのに、かなり無意識にそれを日常的に使っている(使わせている)。無意識、無自覚的に使っているからこそ、その言葉の閉塞感に気付かない。この映画は野球の試合を触媒にしながら、その無自覚の圧力から解放される喜びを描いたものだと思う。予測する必要のないことまで予測することはない、もっと今現在をただただ思いのままに生きていい、そういうテーマの作品だと思う。高校の演劇部の先生が書いたと言われて納得の台本だと思う。

これが演劇の舞台なら抽象性があって成立するが、映画となると余計な現実感がどうしても入ってきてしまうということに対する配慮が、本作は欠けていたのがちょっと残念。どどうして甲子園という設定にこだわったのか? 甲子園のアルプススタンドはしょっちゅう中継されているので、どうしてもあの空間の距離感が嘘くさくなる。そうなるととたんにファンタジーのようになる。リアルな高校生生活を描くのに相応しくない。地方大会に舞台を移してもおおむね問題ないのに、なぜそうしなかったのだろう? 地方大会の1回戦に生徒が強制的に参加させられることはないと思うのだったら、この主要人物たちだけ強制させられたということにすればいいのに。スカウトなんてどこでも来るんだよ、と藤野くんが言うが甲子園出場校のエースのところにならきて当然。むしろ地方大会こそプロのスカウトの主戦場だろう。

藤野くんが投手なのに「がんばってもレギュラーになれないから」という理由で野球部を辞めるのもよくわからない。野手じゃないのだから一人に一ポジションじゃないわけで、野手よりはるかにチャンスがある。故障とか家庭の事情とか、それこそ軽く口にできる「しょうがない」レベルのしょうがないでないと納得できない。個人にしかわからない限界を感じて、ということならわかるが、だとしてもこの作品でテーマにされている「しょうがない」とは別物に思う。これだって野手にかえちゃえばいいのに、と思う。

プロと目されていた園田君が社会人野球で、藤野君にへたくそと言われていた矢野君がプロになるというのも、それほど特別なことではない気がする。このことを、ひたすら努力すれば報われるという喩えのように見なしたり、送りバントを自己犠牲として教訓的に語られるのも、登場人物自身の解釈ということならわかるが、物語上の解釈となると、ストーリー上のご都合主義のように思える。

あとスポーツの試合での盛り上がりは、祝祭の盛り上がりに近い。一種のトランス状態で、その場限りの盛り上がりで終わってしまうものである。主人公たちの解放感も本当のところはその場限りのものなんじゃないかなぁと、そこもファンタジーに感じてしまうのだった。

(評価:★4)

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