コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 全身小説家(1994/日)

「嘘つきミッチャン」の魅力、あるいはドキュメンタリーの死。
crossage

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







作家井上光晴の晩年期の日常に完全密着することによって撮られたドキュメンタリー映画の力作。一個の特異な人間像を余すところなく描ききらんとするこの監督一流の方法論(『ゆきゆきて、神軍』をみよ)にあっては、井上の小説家としての側面はほとんど語られることはなく、もっぱら井上の日々の言動と、井上を思い慕う周囲の人物たちへのインタヴューとを並置する形式で映画は進行することになる。

人々を惹きつけてやまない人となりと語り口。作品内において、氏が魅力的な語り口でおもむろに話し始める逸話の数々は、しかしながら多くの虚構にまみれたものであることが次第に判明する。初恋の相手が1年後に娼妓になっていたという話、炭坑で働く貧しき人々を相手に行っていたインチキ占い、一緒に同居していたはずの父を、家族を捨てて満州へ放浪の旅に出た駄目人間として書きつけた(偽の)自伝・・・・・・。もっともらしい虚構をいかにももっともらしく語る氏の姿と、その氏の話の虚構であることを証言する人たちの話とを対照的に並置する手法が心憎く、幼少時代につけられた「嘘つきミッチャン」という愛らしい渾名に象徴されるように、もっともらしい嘘話を語る姿までをも含めて、氏へ注がれる周囲の者の眼差しは愛にあふれている。

映画中盤部、自らが主催する文学伝習所の講義の場において氏はこんな虚構論を展開する。・・・・・・いわく、自分自身の年譜を作成する際に、現実に起きたこと全てを書き尽くすことはできないという当然といえば当然の前提のもとに、たとえ書かれた年譜にある出来事が全て現実のものであったとしても、書かれるべき出来事の選択が恣意的なものであれば、その恣意性において年譜としては虚構でもありうる、という発見。たとえばその人の人生においてAという出来事とBという出来事とCという出来事があった場合、そのうちのAとCだけ選んでBは書かないとすれば、できあがる年譜は出来事としては現実でありながら、歴史としては虚構でもあるという奇妙な「虚実性」をもったものとなる。そして、年譜や自伝や伝記の類は、この種の「虚実性」をあらかじめかかえている・・・・・・。つまり「本当の自分史」なるものは決して完成することはないのだ。

本映画が「本当の井上光晴史」なるものへ限りなく肉薄せんとする漸近の試みの軌跡を描いたものであるとすれば、氏が話すこの一種の虚構論は、そのまま本映画のドキュメンタリー的手法自体への自己言及、メタ注釈にもなりえている。このシーンをちょうど折り返し地点として、以後、話の焦点はガンを宣告された氏の闘病生活へと移りはじめ、物語はにわかに死の予兆を匂わせはじめる・・・・・・。しかして映画内において死につつあるのは井上本人であり、同時にまたドキュメンタリーという手法が持つ「リアリティ」そのものでもある。井上光晴という一個の「特異な」個人の死にゆく姿を撮りきることを通じて、本映画ははからずも(?)自らが依拠するドキュメンタリーという手法自体の死までをも宣告していたことになるのだ。リアリティの死・・・・・・。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)Linus

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。