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[コメント] リリイ・シュシュのすべて(2001/日)

無駄に美しく、無駄に長い。言語化世界とレミングの群れにはついつい熱いギモンを提起したくなる。
カフカのすあま

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ただ自分の殻に閉じこもり、逃げているだけの少年の姿を、倍増された十代の残酷さと幼い感傷のオブラートで包んで見せているだけ。情感をうつしだす映像は美しいけれど、2時間半は長すぎる。

それぞれ1シーンあたり1、2分、最長5分くらい余分に感じた。冗長な部分(=つい走ってしまう情感)を削除してもっとチャキチャキいってほしかった。せっかく映像的、構図的、色彩的なテクスチャが気持ちいいのに、ダレダレのテンポからは「作者の感傷」―つまり自己満足的なセンチメントしか感じられない。

ずっとうつむいてばかりの主人公の少年にしても、ネット上であれだけ饒舌になれるくせに、どうして現実世界で言葉を発することが出来ないのか? 現実世界で、気持ちや感覚を言葉にすることができなければ、仮想現実であっても、どこを叩いてもそんな言葉は出てこない。

「言葉など信用できない」、「この気持ちを言葉にすることなどできない」なんていうのは、本当に、心の底から他人とつながりたいと思ったことのない人間だけが吐ける言葉。人はある程度なら孤独でいられる。けれども人は島嶼ではないから、いつかは他人とつながる必要があるのだ。孤独を選んだとしても、いずれ人は他人と「つながること」を熱望する。完全な孤独は死。死にたくないから言葉をさぐる。

だから「語る言葉」をもたず、イロイロと問題を抱えた幼い彼らは、言葉を解せずハマれる「病的愛好(フィリア)」に走る。フィジカルな面ではチープ・ドラッグとかアルコール、または自傷に。メンタルな面ではカルトへの盲信、アーティストの信奉など(対象の神格化により、自らの言葉を捨てるという意味でほぼ同一)。

しかし、言葉をもたぬ人間は、ネット上の匿名の世界であっても、あそこまで観念世界を確立して饒舌に語ることはないと思う。だから、概念的であれ、ただ言葉の表層をなでているだけであれ、あれだけ他人をひきつける言葉の世界をつむぐことが出来る少年が、なぜ、あんな閉塞された世界に留まっていられたのか? これが最大のギモン。

自分の欲望を消して、いじめっこの指示するままに命令に従える(自分の好きな女の子ですらケダモノと化すバカな手下たちに差し出せる)のだから、きっと彼は自分など「なきに等しい存在」と思っているのだろう。どうせ「存在しない」のなら、自爆覚悟でふるまえばいいのに。私ならそんなやつと一緒に自爆するのは嫌だから、まず孤立します。それでもダメならその環境から逃げ出します。放浪します。だから、私がいちばん共感できたのは「久野」でした。その久野はステレオタイプにしか描写されないわけで、ひじょうに物足りない。「彼女、強いからだいじょうぶだよ」。なんて無責任な。自分で彼女をそういう立場につくっておいて、「その後」の彼女から目をそらしてどうする?

グループから抜け出せないという、少年たちの「協調性」の高さは、いかにも日本的というか、レミング*の群れ。「自分の力では何も考えられない、何についても意見をもたない」画一的な無自我そのものであり、かなりイライラします。

というわけで。こういう、「言葉にしなくても、君たちなら分かるよね」というアプローチでいくなら、もっと大人の世界を対象にしてください。もっと普遍的な何かに。この監督がそういう映画をつくったなら、私は観に行きます(あ、でも音楽は控えめでお願いします。無音に耐えられないならちゃんと会話をつくってください)。

* レミング=lemming、タビネズミ。繁殖しすぎると海に向かって集団移動し、集団飛び込み自殺をする、といわれる(←本当のところはどうか、眉唾説あり)

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)アルシュ[*] まー[*] Kavalier

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