[コメント] ジョゼと虎と魚たち(2003/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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セフレの「お嬢に多い。上目遣いして・・」というセリフはまさに人をある一定のカテゴリにあてはめて見る見方の典型だが、主人公は違う。主人公は先入観なしに、「その」人を見る。それは「あえて」なのではなく、きわめて「自然な」「ナチュラル」な見方であり、彼の行動原理は性欲や食欲や同情心あるいは愛などの自分の感情だろう。
そしてジョゼは主人公と違い、カテゴリ付けや先入観で物事を見る人だと思う。というのはジョゼは本をたくさん読んでその知識で世界や人を見ようとしているから(例えば「大学生」なのに・・という言葉)。そして彼女のおばあちゃんや彼女自身がずっと息を潜めてひきこもっていたのは、まさに「障碍者」であるから、という先入観にとらわれていたからだと思う。
多分ジョゼと同じような頭でっかちの人物であれば、ジョゼとここまで深い恋愛関係になることはなかなか難しかっただろうと思う。ジョゼを「障碍者」というカテゴリで見ていたら、もっと行動が慎重になるだろうし、行動に踏み込めなかったかもしれない。しかし「健常者」「障碍者」という垣根を簡単に乗り越え(というか垣根の存在も気づかないほど)、ここまで深い関係になれたのは、主人公のようなナチュラル先入観なし人間だったからではないかと思う。
しかし一方で、最後二人が分かれてしまうのもまた、主人公のような人間だったからこそ、というような気もする。親や親戚あるいは「世間」は彼女を障碍者という「カテゴリ」に当てはめて見るだろう。彼は後から自分の周りにあるそのような圧倒的なカテゴリ付けの世界を知る。しかし彼が最初からそれを考えて行動していたら、そもそもジョゼとの関係はなかったかもしれない。主人公のような人物でなければジョゼとは恋愛できなかった。しかし、主人公のような人物であったからこそ二人は別れることになった。良い面と悪い面がある、ということでしょうか。
結果からいうと「逃げた」になるかもしれないけど、でも「思い出を燃料にして生きていく」という言葉もあるように、恋人の存在はなくても、思い出の存在を糧に人は生きていける、そう思えるラストでした。
*あとセフレのシーンやセックスシーンが結構なまなましくて、大学生の時はその時点で見てられずやめました。
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