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[コメント] ツリー・オブ・ライフ(2011/米)

タルコフスキーの神秘性にもイーストウッドの冷徹さにも及ばない、その欠如の美しさがゆえに吾はこの映画を愛す
Orpheus

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







第一印象ではまずブラッド・ピットに強い違和感を感じた。'50年代の保守的な南部の街で成功できず、子供たちに厳しく当たる父親を演じるには華がありすぎる。また、一癖も二癖もあるそのキャラクターが立ちすぎて、映画が描こうとした“神の代理としての厳格な父性”と大きく乖離してしまい、登場人物のなかで一番浮いていたように思う。それから、セリフを意識的に排除しているこの映画では、その代役として音(特に音楽)が重要な役割を与えられているのだが、賛否両論をもたらした例の創世記や生命の誕生をイメージしたシーンで“映画的な空白”を恐れて埋草的に用いられたクラシックはあまりにも安易すぎる組み合わせのように感じられた。また、オルガンをひとしきり弾いたブラッド・ピットが息子に「自分は音楽家になれなかった」と吐露する場面まであったが、大バッハが厳格だったのはあくまで対位法などの音楽構造に関してであり、家庭ではよき父親だったと言われる。要は「ブラッド・ピットが偉大な音楽家にも良き父にもなれなかった」ことを仄めかしたかったのだろう。

11/9/9 シネスケ移転時に追記:

劇場で再見し、劇中で用いられている音楽を中心に気がついたことを補足したい。まず、創世記や生命の神秘といった創造者(=神)を感じさせる場面にはタヴァナーなどの宗教音楽が用いられており、本作がキリスト教をモチーフとしたテレンス・マリック版の『天地創造』であることが分かる(クライマックスに至ってはベルリオーズの「レクイエム」が丸ごと使われている)。冒頭では「聖俗の選択」のテーマが宣言され、主人公の母親が粗野な《俗性》と交わる運命にあること、また母子二代に渡って父親に服従する運命が示唆されている。そして、その《俗性》を体現している父親のブラッド・ピットが「ここは他人の家の敷地だ。絶対に越えるな…」と息子を脅かす場面ではスメタナの「我が祖国」が大音量で流れ、やがて来るべき他者(父親や弟も含む)との境界線争い=衝突の可能性が仄めかされる。また、奏者に何度もやり直しをさせた指揮者トスカニーニのエピソードも《父性》への服従のモチーフを強調する(ただし、劇中で実際に流れるブラームスの交響曲はトスカニーニ指揮のものではないようだ)。それに対して、海外出張で父親が不在のあいだ(=鬼の居ぬ間)に訪れる、息子たちと《聖性》の体現者である母親だけの無邪気で幸福なひとときにはクープランの「神秘的なバリケード」が効果的に用いられている。そして、これらの回想シーンをノスタルジーで包み込む通奏低音としてのシチリアーナ。息子の記憶のなかの母親は樹の上に居たり飛び上がりさえするが、父親はいつも庭(=地面)ばかりを弄っている。もちろんこれも《天と地》の対比だ。やがて大きくなった息子は、ビルの狭間にある樹を見て《生命の樹》と母親を想起するが、やがて高層ビル(=神を恐れず、天をめがけて築かれたバベルの塔の寓意。そびえ立つ煙突の工場で父親が働いていた描写も出てくる)を意識するに及び、長らく疎遠にしていた父への理解を深め、高層ビルを上へ上へと昇ってゆく。しかし、その人工的な空間は行き止まりで、ビルを飛び出した息子は青空の向こうにある天国の弟や母親へと想いを馳せるのだ。限りある命を持つ者に科せられた不可能性やその欠如がゆえの不完全性な美しさ。映画という媒体を用いた一遍の詩のように私には感じられた。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)chokobo[*] 緑雨[*]

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