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[コメント] 白痴(1951/日)

文学と映画、そして現実の世界
スパルタのキツネ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







現実の世界にあって、亀田のように、こちらが知りたくも無いことまで独白する人や、洞察力に優れ他人を哀れむ人は、敬遠されるものです。本作で登場する亀田は「白痴」故に、その行為を行います。接する人は亀田を「白痴」として、それを許す(許そうと試みる)のですが、最後には、赤間と妙子のように人格が完全におかしくなってしまいます。生身の人間は、自分のありのまま、人のありのままを見ることは、耐えることができないのでしょう。

「一切合財自分のことをさらけ出す人は、他の怒りを買うものだ。さほどに裸体は慎むべきものだ!そうだ、君らが神々であってはじめて、君らは君らの衣服を恥じてよかろう!」

と、ニーチェは「ツァラトゥストラ」のなかで記しています。この言葉によると、亀田の行為は、神の領域ですらあり、人に許された行為ではないのです。「白痴」を神とする設定は、小説でこそ生き、現実の世界ではありえないと思う(映画は微妙なところですねー)。

ドストエフスキーの著作に人の内面を鋭く描いた作品(すなわち人の内面をさらけ出した作品)は数多い。しかし、読んでいて一度たりとも不快感を覚えたことが無い。それはそこが現実の世界ではないからだと思う。読み手はそれぞれの「空想」の中で各登場人物を「リアルに(生々しく)」構築することができる。

しかし、本作は現実に「≒」の関係で描いている(と思われる)ためか、私は不快感を覚えた。この不快はおそらく赤間が感じたものにも近いように思える。鑑賞者としてこの感覚を持つことが私特有のものなのか否か、仮に私特有なものでなければ、作品として成功か否か、私には分からない。 ロシア(ソ連)で製作されたドストエフスキー原作の作品には感じられない感覚なので、本作の設定が日本であることが影響しているかもしれない。いずれにしても、映画を架空の世界として割り切るには、本作は現実味が強すぎるように思える。

亀田の描写が、その顔つきから素振りまで、1968年ソ連製作の「カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー著)」のアリョーシャ(作品中では神の心に一番近い存在)に酷似しているのは、イワン・プィリエフ監督が本作を参考にしているように思われる。そう考えると、グローバルの視点からは成功といえるのだろう。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] 草月[*]

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