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[コメント] エリ・エリ・レマ・サバクタニ(2005/日)

邦画界が復興しつつある中での「前時代的な仇花」。やがては淘汰されるべき「逸材」が放つ「勘違い映画」であろう。自らのポジションと感性を勘違いしたまま撮り続ける青山真治監督に誰か鈴を付けるべきです。
sawa:38

彼は何の為に映画を撮っているのか?

・・・・・さっぱりわかりません。この答えはきっと「キネ旬」とか「映画藝術」とかに特集記事かなんかで取り上げられたりするんでしょう。

では、彼は誰に見せる映画を撮っているのか?

・・・・・試写会で無料で鑑賞する批評家たちですかね。少なくとも大枚はたいて映画館に鑑賞しに行く一般市民を対象にしていない事だけは事実でしょう。ここで言う一般市民とは、「これまでの人生で一番感動した映画は『タイタニック』です!」とか「フジTV制作の『劇場版X○△X』が待ち遠しい!」とか真顔で言う会社の同僚の女の子の事を指しています。

彼は精神世界やら深層心理やらをテーマに映像を撮る。そのチャレンジ精神には敬服するしかないが、当然のことながら映画としては退屈極まりないモノになる。そして「判ろうとするな、感じろっ!」とでもいうようなお言葉が聞こえてきそうだ。

だが一流の哲学者になれないコノ映像作家は、当然ながら答えを出す事は出来ない。映画も抽象的な部分を振り回して肝心な所をぼかしていく。また逆に、そういった所を曖昧模糊にした方が批評家たちにはすこぶる評判が良くなるという結果も知っている。

鑑賞者に下駄を預けるっていうか、映画的解決を放棄するような作品は批評家魂を揺さぶるのだ。どうでも良い事柄について喋る事が出来るから・・・「小津の壷」も同じこと・・・

ただね、邦画が勢いのなかった時代はこんな作品があっても良かったと思うんです。でもね、やっとのことで邦画界も復興しつつある現在、芸術家気取りのこういう監督は自身のポジションを再確認した方が良いのではないかと思うのです。過去の過大な論評に胡坐をかき、自らの「感性」とやらを勘違いしてやいないかと。

脚本の段階での徹底した「意図的省略」によって、観客は物語の全体像がなかなか掴めないようにされる。さらに原っぱでのライブシーン等、監督の感性が観客に伝わる(?)まで延々とさらに延々と続く。これ等はまるで監督の感性の押し売り状態である。ベテランの域にある監督ならば、もっと観客に伝えるべき方法手段を持っているはずでしょうに。

せっかくの世界が認めた「逸材」なのなら、「前時代的な仇花」とならないようにして欲しいものです。

(評価:★1)

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