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[コメント] 太陽がいっぱい(1960/仏=伊)

リプリー』との違いは、本作は風景にものを語らせたところでしょう。改めて本作の巧さを感じます。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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 実は私はこの前に既にリメイク作である『リプリー』の方を観ていて、ストーリーフローの方は知っていたのだが、改めてみると、リメイクとは別格の作品であることを認識。伊達に名作と言われるだけじゃない。

 では、『リプリー』とは何が違うのか。勿論ドロンとデイモンでは格が違う…と言ってしまえばそれまでだが、本作の魅力はそうではなく、演出力が突出していると言うことが挙げられるだろう。『リプリー』はより原作に忠実に、主人公トムの心象風景を中心に取ったのが特徴的だったが(本作公開当時では表現が許されなかった同性愛的傾向も含めて)、本作の場合、それらは直接語られることなく、全て暗喩として画面上に出ていると言う点にこそある。トムの思いは全て光景や自然によって代弁されているのだ。海を例にとっても、トムの精神が安定していると、海も穏やかに凪ぎ、気持ちがささくれ立って行くに従い海も荒れていき、激しい波が起こるようになっていく。邦題である「太陽がいっぱい」はラストのトムの台詞だが、これまで窮余の策として次々に起こしてきた殺人が、全て好転し、これからは何不自由ない自由な生活が待っている。という彼の思いそのものを示している。かつてフィリップにいじめられた時、敵であった太陽をついに味方に付けた。という確信によって語られる台詞だったのだろう。トムにとって自然は敵対するものであると同時に自分の代弁者であったと言うことだ。なんだかんだ言っても実はクレマンはしっかりヌーヴェル・ヴァーグ思考を本作に散りばめている。伝統的な職人技とヌーヴェル・ヴァーグの新しい波とが見事に合致した姿が本作の良さだろうと私には思える(勝手な想像ではあるが、クレマン監督が『狂った果実』を観てないとは到底思えない)。

 勿論それを裏付けるのがドロンの存在感であろう。冒頭ではアメリカからやってきた垢抜けない男。という姿で描写されるのだが、この時点では実はロネの方が魅力的に撮られている。人間的な魅力というのは遊びを知っている人の方にあるのだから。それに翻弄され、まるで従者のように従うだけの彼が、初めて自主的に行ったことが殺人であったのだが、そこから急に魅力が増す。一歩を踏み越えたことによって、遊び人とは異なる危険な暗い魅力が出てくるようになるのだ。ここからのドロンの存在感は目が離せなくなる。たとえ彼が行っていることが今を回避するためだけの行き当たりばったりの殺人であったとしても、運を含め全てを自分に従わせてやろう。というほどのギラギラとした姿は、初登場時とはまるで異なって見える。

 今から観てもそう思えるんだから、初めての本格的ピカレスク・ロマン・ヒーローの誕生に、特に日本人はめろめろに参ってしまったことは想像に難くない。見事な演技であった。

(評価:★4)

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