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[コメント] リンダ リンダ リンダ(2005/日)

「キチガイ扱いされない日々」からは、「ブルーハーツが聴こえない」。 2008年3月14日DVD鑑賞
ねこすけ

そもそも「文化祭」という学校イデオロギーが純度100パーセントで溢れている空間に「どぶねずみの美しさ」などがあるとすれば、そこで「キチガイ扱い」される者にしか、それはあり得ないと僕は思う。つまり、「自分」を表現したいけれど「文化祭」という枠の中でしかそれを表現できない――というディレンマをどうにか克服しようとして躍起になって、ひたすら走り続ける「キチガイ」じゃないと、「溝鼠」とは呼べないと僕は思う。

今日の学校における文化祭になど、僕は「青春」などというものは無いと思う。あるのは、シチュエーションを重ねるだけのペラペラの青春であって、確かにそれを僕らは「青春」と呼ぶことは可能だし、事実として本人にとっては青春なのは否定できない。だが、一方でそこには学校イデオロギーという、それを相対化して乗り越えていかなければならないはずの物が、強烈な拘束力で存在しているわけで、それを超えないのであれば、文字通りそれは「文化祭レベル」に留まると思う。だが不幸にも、今日の「若者」がそれを乗り越えて「キチガイ扱い」されながら「終わらない歌」を歌う余地は殆ど残されていない。所詮は、「文化祭」なのだ。

ウォーターボーイズ』が面白いのは、その「普通」を「男のシンクロ」という「キチガイ扱い」で乗り越えて行った所だと思う。この映画に、じゃあその「キチガイ扱い」があったかというと、残念ながら、僕にはそれを読み取ることは出来なかった。

確かに誰にでも経験のあるような「悩み」とか、そういう定式化された「青春」はそこに描かれているが、そこにはドラマが無い。シチュエーションを重ねただけで紡がれる「物語」であって、「友情」であって、根底には「体制迎合主義」が垣間見える。夜の校舎や恋愛や音楽があって、でも、何もない。僕らは、「何でもある。だけど、何も手に入らない」その虚無感にこそ、叫びを響かせたいはずじゃないのか!?

別にヘルメットを被って角材を担いで、「体制」と闘えば「青春だ!」と叫ぶとか、そういうわけじゃない。

だけど、この映画で度々挿入される「ひいらぎ祭(=学祭)」のCMで語られる「青臭い」言葉の数々に吐き気を感じるのは、それが常に「学校」というフィールドの中でのみ語られる言葉であるからだ。無意識のうちに「学校」というイデオロギーに包括されないと叫べない「青春」を、あたかも「僕の心の叫び」かのように叫んでいる姿には、吐き気しか覚えない。それを「あとから思い出して、楽しかったねー、でいいじゃん!」って反論をするなら、僕はこう反論したい。

「それは溝鼠ですか?」

ここに表現された「青春」は、「今」という時間に於ける「青春」をこそ描きつつも、一方で「私」や「学校の中での私」という根本的な問題を完全に蔑ろにしている。だから僕は、そんな「ハムスター」を「写真にも写るかわいさ」で撮影するような「青春」にブルーハーツを被せてくる演出に、思わず呆れてしまった。

この映画からはブルーハーツが聞こえない。

初めてマーシーの『チェインギャング』を聞いた時、ヒロトの『人にやさしく』や『リンダリンダ』や『世界のまん中』や『ブルーハーツのテーマ』や『情熱の薔薇』や・・・・とにかくブルーハーツを初めて聞いた時、僕は理由もなく涙が溢れて止まらなかった。自分でもよくわからないけど、だけど、「何か」がそこにあった。

一人ぼっちで泣いてても、ブルーハーツは「ガンバレ!」って言ってくれた。

ぺ・ドゥナを初めとして出演者の演奏や演技に何か言いたいわけじゃないし、映画としても決して悪い作品じゃないと思う。ラストの演奏には、それでもやっぱり僕は涙を流してしまった。

だけど、それでもやっぱり、僕はこの映画からブルーハーツは聞こえない。

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)づん[*] けにろん[*]

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