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[コメント] 真救世主伝説 北斗の拳 ラオウ伝 激闘の章(2007/日)

いま創る意義というものを考えてほしい。漫画、TVを忠実になぞるだけなら、21世紀にリメイクする意味は確実にない…と思っていましたが、ロープブレークさんの見事な一撃によって自論は玉砕いたしました。この文章は晒し物として、敢えてこのまま置いておこうと思っております。(2007年5月1日)
水那岐

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







試写会で、まだベストの作画に完成しきっていない状態で観たため、絵の乱れはやむなきことと判る。と言うより、随分頑張っているのだなと感ずる。

また、最も心配だった声優問題も、前回(『ユリア伝』。正直、一個の映像作品として認めがたい「説明フィルム」だった)より参加した石田ゆり子を除けば、みな奮闘努力していたことが肯ける。宇梶の「我が生涯に一片の悔いなし!」が失笑を誘わない名セリフと認められたことだけでも大したものだ。

しかし、肝心なストーリーで心を動かされなかった。ケンシロウ、ユリア、ラオウのセリフは幾度となく読み返した原作をほとんどいじらずに語られ、新しい試みといえるものはラオウ軍内部のミニマムな問題だけだった。これはTV、さらには漫画の「なぞり」以外の何の意味があるというのだろう?せめてラオウの遺児リュウを宿したのはレイナだった、等の新しいエピソードが付け加えられていたのなら面白くもあったのだが…。南斗義勇軍の勝利なんてことは付け足しもいいところだ。

と言うか、第一作『殉愛の章』であれだけラオウを変えたスタッフが、既存のラオウファンに屈したとでもいうのか、再びラオウを思慮なき「巨躯の子供」にリセットしてしまったのが自分には何とも気にくわないのだ。確かにケンシロウとのあいだにマドンナそのものであるユリアを置いた原作は、ラオウとケンシロウの対比にぴったりな役目を果たした。しかし、今作は良くも悪くもラオウは分別を持ち、女も知っているひとりの「大人」である男に再創造された武将である。その彼が自軍を投げ出して(たとえ絶対の勝算はあっても)愛する女のために単独行動に出るだろうか。まして今回のラオウはバルガのように軍にあって将を諌める立場にある部下を認め、さらにラオウに媚びへつらい、賞賛を受けるためには手段を選ばない部下を切り捨てるだけの冷静さを持っている。彼ならばバルガたちに軍の指揮を任せ、今なお襲い来る敵軍への牽制を命じてから行動に出るだろう。まして原作を知らず、今回のシリーズのみを見た観客は、なぜそこまでラオウがユリアに固執し、さらに愛を知らぬゆえケンシロウらに勝てない理由が理解できないだろう。(『殉愛の章』でのHWさんのおっしゃる、死闘ののちの敵役の昇華こそが北斗だ、というご意見はよく判る。だが、もはや巨石は坂を転げ落ち始めてしまったのだ)

対ラオウ戦のエピソードはあまりに浸透しており、手の加えようがなかった、というスタッフの気持ちもわかるのだが、迫力だけ増した「新作」もどきを見せられても今の自分は納得できない。『トキ伝』(必要なのか?)をはさんでの劇場用新作『ケンシロウ伝』は「天帝編」を無視していきなり「修羅の国編」に飛んでしまうことが予想されるが、新しい解釈での、しかも原作の矛盾点を正し、きちんと終止符の打たれた形での新作を自分は期待する。今回はかつてのブーム時に作品を支持し、大人になったファンが主たるターゲットであろうから、その必要はある筈なのだ。

あしたのジョー2』は、原作を読んだ後でも充分に面白い。そのあたりをスタッフはよく理解して欲しいものだ。

と、ここまで書いた文章から数週間をおいて、前述のロープブレークさんの見事な反論をいただきました。こ、この水那岐の目を持ってしても見抜けなかった!と、リハクさながらに頭を垂れる結果と相成りました。

この文章は破棄してもよかったのですが、敢えて反省のためにここに晒しておこうと思います。改めて『激闘の章』を再見したとき新たな文章をしたためるのが筋でしょうが、とてもあの文章を越える解釈に到れるとは思えませんので…。ロープブレークさんには、ラオウの言葉をもって礼に代えさせていただきたく思います。

「見事だ!弟よ」(笑)…ってお年が判りませんが。

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