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[コメント] スペシャリスト 自覚なき殺戮者(1999/イスラエル=仏=独=オーストリア=ベルギー)

腐れ知識人、あるいは自覚なき映画破壊者 〜茶番の演出、あるいは明晰な映画についてのある反例〜
ゴルゴ十三

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







サイードは専門家と知識人を明確に排他的に区別したが、これに従えば、アイヒマンの様な専門家を批判するには自らを知識人の側に於く、強固で政治的な意図が必要となる。然るに、現在この映画を、映画と呼ばれるからには映画であろうとして流通させる意図せぬ悪意と、その事にすら気付かずに映画一般を批評する連中の泥濘きった足下に嫌悪感を覚えずにはいられない。

この映画は、フィルム貯蔵庫に眠っていたイスラエルでのアイヒマン裁判の350時間に及ぶ記録映像に、電子的編集を加えてそのまま128分に繋げ直したものである。この直接性は明晰さの根拠足り得ている。しかし、その明晰性をもって映画の美学を措定し直す試みに、いったい何の意味があるのか!そしてそのような手先によるフイルムとの戯れは、ホロコーストなど無かった、と夢想を主張する事とどう違うのか!(もしくは、イスラエル国家による裁判の政治的利用とどう違うのか!)

もちろん、この映画にも若干の編集による色気はある。しかし、その映像の直接性たるや、「戯れ」などという文化乞食用語では捕らえられ様も無い明晰性を獲得している。それは、あの鬼畜が意外に平凡だったという肩透かしに起因するものでは無い。勿論、この映画を支配した裁判の如何様臭い臨場感に因るものでも無い。逆説的であるが、構図や進行の点では陳腐で平凡な色気(映画的身ぶり)を引用しながらも、これは映画の引用からなるものではないという事実から来るものである。この映画が映画をどこかで超出しているからだ。

フイルムの物質性をいたずらに強調する事でありもしない映画の明晰性を回復しようとする試みは、諸悪が凡庸であるのと全く同じ理由で凡庸である。 そして、「映画」を自明視しようなどと云う知的誠実さのかけらもない堪え難い誤謬など、すくい難い馬鹿と云うのを超えて、この場合、むしろ悪である。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)寒山拾得[*] 新町 華終

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