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[コメント] ゴダールのマリア(1984/英=スイス=仏)

魂と肉体についての問答や、ゴダールらしい音の編集、どちらもこねくり回しているようでいてどこか単調。形而上的なテーマと日常性を容易く結合させてしまう手並みはさすがに鮮やか。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







■「マリアの本」(監督:アンヌ・マリー・ミエヴィル

マリー(レベッカ・ハンプトン)が、床に置かれたテレビで観ているのはゴダールの『軽蔑』だろうか。全体的に、或る一個の被写体を心もち大きめに捉えたシンプルな構図によって、ポップで愛らしいショットが少女的世界を構築している。

マリーが、台詞というよりは大人の振る舞いを模倣してみせることで、無言の抗議を行なうシーンが印象的。食卓での、目の手術の解説をしてみせるシーンや、ボードレールの詩について授業をする教師を演じるシーンでは、間接的に両親に反論や問いかけをしているようにも聞こえる。また、一方的な語り手としての大人の振る舞いが少女にどう映じているかもよく分かる。

ラストシーン、母(オーロール・クレマン)がどこかの男と出かけた直後、マリーは食卓で一人、オーケストラの指揮者を真似てみたり、「欧州統合は今のうちに潰さなきゃ」と呟いて卵を割ってみたり。母が父(ブルーノ・クレメル)以外の男と一緒になることへの抵抗感を、わざわざ「欧州統合」と言ってみせる辺りに、大人の世界に手が届かない、だがその中でかき回されてしまう少女の、大人との埋められない距離が感じられる。

マリーが、別居中の父を訪ねて数学を教えてもらっているシーンでは、家では延々と先生を真似ていたマリーが、父が図形を描く手許ではなく、父の顔を見つめ続けている。この、父が自分に優しく語りかけてくれている、という状況を、幾何学を介して描くミエヴィル。ドラマをそれとして明示する手法ではなく、声、表情、振る舞い、といったイメージの提示によって描く演出の静謐さが胸に沁みる。

白眉のシーンは、父の許から帰ったマリーが、自宅で、父が「忘れたから今度取ってきてくれ」と言っていたマーラーのレコードをかけて踊り続けるシーン。レベッカ・ハンプトンの身体表現が、子供ながらに堂に入っている。部屋中を踊りまくってテラスにも出て行くのだが、そこは冒頭のシーンで、両親が言い合う声が被さる形で映し出されていたテラス。こうした間接的なイメージの伏線の回収によって、マリーが両親の不仲に割って入りたくてもそれが叶わない様が痛切に感じられて見事。

マリーが、父の許でリンゴを齧りながら父にも薦めて齧らせるシーンがあるが、この「リンゴを齧る」行為や、男女の諍いというテーマは、続くゴダールに引き継がれる。

■「こんにちは、マリア」(監督:ジャン・リュック・ゴダール

キリスト教的な創造説に懐疑的な教師(ヨハン・レイセン)と不倫関係になる女生徒・エヴァ(アンヌ・ゴーチエ)が、彼に「イヴ」と呼ばれていたり、彼と肉体関係を結ぶシーンでリンゴを齧っていることなどからも、聖書の内容との符合が見てとれる。マリー(ミリアム・ルーセル)がジョゼフ(ティエリー・ロード)と電話しているシーンでも、マリーはリンゴを齧っている。

また冒頭の、無数の光が反射する水面のショットは、創世記にある、天と地の創造に先立って「神の霊が水面の上を覆っていた」という記述に沿ったものではないか。また草原のショットは、創造の第三日に於ける「地は青草と、種ある草、種類に応じて種ある実を結ぶ果樹をその上に生えさせよ」に沿ったものか。水面のショットでは、何か重いものが水中に没したような音と小波が見えるが、これは終盤、マリーが幼い息子をプールに入れているシーンと結びつく。これは浸礼の儀式を連想させるものだ。

「水」を介して、世界の誕生、生命の誕生が結びつく。「草原」は、マリーが、彼女の服の下にもぐり込む息子に、陰毛の呼び名として挙げるものの一つ。もう一つの「ハリネズミ」も、いかにも女性器を連想させるような格好でカットインしていた。おそらくゴダールは、キリスト教的イメージの内に、ナマな自然のイメージ、生殖のイメージを見出すことで、一つの批評を試みたのだろう。臨月を連想させる、満ち欠けする月のショットと、丸い夕日、丸いバレーボール。病院のシーンでどこからともなく聞こえる「記憶するには絵(イマージュ)の方がいい。忘れたいなら文字を用いるべきだ」といった台詞。言葉(=概念)よりも、具体的なイメージの多義性を選択する、唯物論者ゴダール。

ジョゼフが、剥き出しにされたマリーの腹に触れるシーンでは、「愛してるよ」と呟く彼はマリーに拒絶される。そんな遣り取りを繰り返しているさなか、ベッドの下から唐突にガブリエル(フィリップ・ラコスト)登場。その後、ジョゼフが再びマリーの腹に触れると、今度は合格。生命が宿る腹のすぐ下の陰毛。神聖さと猥褻さが否応なく同居するこのショットは、本作の葛藤を最も端的に示している。

厳かな音楽が始まったかと思えた途端に断ち切られる、ゴダール独特の編集により、ドラマチックに味付けされた映像と、素の映像とが同等に並列する。ドラマの異化。だが映像内のアクトとの兼ね合いが緻密に計算されているような印象も無く、編集機を操作する指先の愉しみだけで弄っているような観念性が多分に漂う。そのせいで、却って映像も音も単純に平板化しがちに感じられてしまう。

そうした、複雑で凝ったことをしているようでいて、実際は単純かつ観念的な繰り返しともとれる面があるのもゴダール的。「魂」と「肉体」を巡る問答の繰り返しの退屈さもそこにある。

中谷美紀は"STRANGE PARADISE"で、「J.L.G(ゴダール)の“マリア”を レイトショーで観てた そんな小さな幸福(こと) 分かち合うあなたはいない」と歌っていたが、これを恋人同士で観ることを「幸福」と感じるのは女の側だけに思えて仕方がない。本作は、処女懐胎というテーマを通じて、男が、欲望の主体としての自身を断念する様を描いているように見える。タクシードライバーという、受け入れる側としてのジョゼフと、車に「注入」する側である、ガソリンスタンドの娘・マリー。

まぁ作詞者の売野雅勇は、単にオシャレっぽさのアイコンとして「J.L.G」とか言ってみたかっただけなのかも知れないが、そうした「オシャレっぽさ」はまた、ゴダールが、そのインテリ臭漂う半面で、女性をキュートに撮る才能に長けていることも多分に作用している筈。エリック・ロメールよりも巧いくらいだ。だがそれはまた、ロメールのように女性をナマな生き物として捉えることができず、やや愛玩物的に捉える青臭さが抜けきれていないせいかも知れない。

教師が、自説を解説するシーンでは、男子生徒の目を女生徒に遮らせ、彼女に「ウイ」と「ノン」で指示させながら、男子生徒にルービック・キューブをさせる。この、キリスト教の教えへの疑問を投げかけるシーンは、同時に、本作が描く男女関係の暗喩かとも感じさせる。

(評価:★3)

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