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[コメント] 大いなる西部(1958/米)

原題の「Big Country」は劇中の台詞にも何度か使われるが、その西部の広大な土地よりも更に広い海を知る東部の男が、「水」を巡る争いに介入する。「Big Country」の狭さを描く反西部劇性。だが彼もまた超越者ではない。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ジェームズ(ジム)・マッケイ(グレゴリー・ペック)は、その娘が彼の婚約者であるテリル家のパーティで、見知らぬ男から「広大な土地(Big Country)でしょう」と声をかけられるが、「海の方が広大です」と返す。虚を突かれた男は、去っていくジムに向かって「何が海だ」と毒づくが、物語の舞台となる西部の地は、決して矮小なものとして描かれているわけではない。その証拠に、ジムと、テリル家の牧童頭リーチ(チャールトン・ヘストン)との拳闘シーンは、広大な地のただなかで殴り合う二人を、かなりのロングショットで捉えていて、小さな二つの黒い影が、四肢を振り回しながら何やら絡み合っている、といった印象の画になっている。リーチの小屋に突然現れ、別れの挨拶に来たと告げたジムの「ここでは狭くて挨拶できない」という言葉の意図を察したリーチは、「外には広大な土地がある。好きな場所を選べ」。その土地の広大さは、その中で争う人間どもの矮小さを際立たせる。そして、その土地よりも更に広い海を知るジムは、より「広い」視野で物事を捉える存在として行動する。

この拳闘の理由は、何も告げずに姿を消したジムの探索に駆り出されたリーチが、唐突に帰って来たジムに対して「道に迷ったんだろう」と難癖をつけたことによる。ジムは、海の男らしく方位磁石という文明の利器と地図を頼りに、「Big Country」の中を正確に行き来したのだが、リーチの侮辱と、決闘を促す態度には同調しない。先行するシーンでは、リーチがわざと勧めた暴れ馬「サンダー」に、その場では乗らず、後から一人で挑戦し、乗りこなしたが、拳闘シーンに於いても、リーチに「ここだけの秘密だ」と告げた上で、延々としぶとく殴り合う。「勇気」を周囲に示すことで名誉と名声を保とうとする西部的な価値観への、静かな抵抗。

ジムは、ヘネシー家のバック(チャック・コナーズ)にからかわれた際には、婚約者パトリシア(パット)(キャロル・ベイカー)が彼らに向けた銃を取り上げ、結果、彼らによって縄をかけられ侮辱されることになるのだが、まるで気にする様子がない。この辺の段階では、西部の過酷な現実を知らない平和主義の紳士の甘さばかりが印象づけられ、観客は苛立ちすら覚えさせられるのだが、サンダーの征服、両家の争いの元であるビッグ・マディを、自らの財力と見識によって買い上げる行為、リーチとの格闘といった過程を経ていくにつれ、ジムの態度は、井の中の蛙たちの闘争を制する、より高度なリアリズムとして位置づけられていく。

水場のある土地、ビッグ・マディを、「両家に分け隔てなく水を与えよ」という教えと共に祖父から継承したジュリー・マラゴン(ジーン・シモンズ)と、彼女を単身訪ねたジムによる、海と広野に於ける「怖い話」合戦。海は広いだけではなく、広野に劣らぬ危険を孕んだ場所でもある。だがジムは、決して西部の人間どもを遥かに見下ろす超越者ではない。最後には遂に、囚われのジュリーを救う為に、父の死の原因であったらしい、拳銃による決闘を行なうのだ。ジュリーはバックに脅されて、ジムの命を危険に晒さぬ為、「自分からここに来たの」と叫ぶが、ジムは猛然とバックに殴りかかり、ヘネシー家の主ルファス(バール・アイヴス)から決闘を勧められると、躊躇なく応じる。流血なき円満な解決を求めようとも、譲れない一点に相手に踏み込まれたならば、暴力の出る幕とならざるを得ないのであり、それはジムであろうと変えられないことなのだ。第一、ジムは、ビッグ・マディに牧場を拓く計画をジュリーに話しており、海に帰るのではなくこの広野に留まる存在なのだ。

こうした両義性は、リーチの行動にも表れている。テリル家の主ヘンリー・テリル少佐(チャールズ・ビックフォード)に率いられ、リーチを含む部下たちが、ヘネシー家への襲撃の為に待機している所へ、ジムが丸腰で現れ、平和的な解決の為にヘネシー家に向かうと告げる。彼を止め、撃つぞと脅す少佐をリーチは制する(「どうせ奴らに殺されます」という、少佐が承知しやすい理由によって)。そして、多大な被害が出ることも厭わずに出撃を命ずる少佐に対しても反抗し、「臆病風に吹かれたか」と罵られてもなお肯んじない。これは、暴力によって他者に威を示すことを拒むことの「勇気」をジムに教えられた結果としての行動だろうが、少佐が「元は一人だったんだ。一人で行く」と単身、谷の向こうへ進んで行くと、リーチと部下たちは、後から少佐を追ってくる。これは、最後には唯一人でも危険に進んでいく意志を示した少佐への敬意だろうが、単身で谷の奥へ向かう少佐の姿は、先にジムが少佐らに示した姿と重なるものでもある。違いは、丸腰であるかどうかだが。

最後には、争いの真の原因たる私怨に決着をつけるべく、老人二人の一対一の決闘を経て、敗者として斃れた少佐の周囲に集まる者たちの姿を高所から俯瞰したショットが挿入される。この老人同士の決闘が、ガンアクションとしては実に締まりのない、緊張感を欠いたシーンであることや、ジムとバックの決闘が、バックの卑劣かつ臆病な情けなさによって、ぐずぐずと崩れ落ちるように終焉することなど、男同士の闘いの物語としての「西部劇」そのものが、本作に於いては回避されている。

(評価:★3)

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