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[コメント] パリところどころ(1965/仏)

個々の短篇に於ける<室内/街中>の切り替えによるドラマの転換の仕方が面白い。街を歩く場面は、時にシークェンス間を繋ぐ転換点、また或る時はそれ自体がシークェンス、等々。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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一本目のジャン=ダニエル・ポレは室内に限定。主人公の、常に戸惑ったような無表情な顔。彼が呼んだ娼婦は、上手く事を始められずにいる引っ込み思案な彼を「ヒッヒッヒッ」と笑う。カメラは街には出ないが、二人の会話に余所の街の話が出てくる事で、対照的な二人がこんな形でパリの或る所に顔を会わせるという事そのものに漂うアイロニーが感じられる。室内に限定されている事によって、次へと展開しそうでしない状況の、どうしようもない可笑しみが、各ショット内をぐるぐると回っている。

二本目ジャン・ルーシュ。これと最後のシャブロルが、いちばん気に入った。長回しで延々と続く夫婦喧嘩。次々飛び出す女の不満。長回しの「長さ」よりも、短い時間によくもまぁこれだけ、と息詰まる生活感が滲み出ている。外に出た女は、夫と正反対の男に見初められ、旅に誘われる。断られた男の投身自殺は、言わば女の願望の自死のようなもの。長々と描かれた結婚生活への失望も、今すぐ見知らぬ男と逃げるほどのものではなかったのだという、この俯瞰的な視点への急上昇こそ、突然の死の衝撃性以上に、結末のドラマ性を高めている。

三本目のジャン・ドゥーシェだけど、単にアメリカ娘がパリジャンに騙された、という話ではないだろう。パリという街のイメージに惹かれてやって来た彼女が一夜を共にした青年は、裕福な友人を真似ていただけの、売れない役者。つまり娘はイメージに騙されていたのであり、その事を如実に示すのが、彼女の通う美術学校でヌードモデルをしていたのがその男だと知った瞬間、教室を飛び出すという行動。彼女自身は一方的に見る側の立場であったのに、そこで自分もまた対象から見られる立場に置かれる訳だ。冒頭の、娘と青年の出逢いを語るナレーションと共に流れるパリの街並みの映像も、心もち高めの視点からの移動撮影で、どこか夢遊的な印象。

四本目のエリック・ロメールは街中がメインで、他も主人公の職場である服屋と地下鉄というパブリックな空間。地下鉄ではご婦人のハイヒールに踏まれて靴に穴が空き、広場では、次々と走る車を避けて路を渡る。都会の暮らしは、日々危険を避ける冒険だ。職場では客に慇懃に振舞う彼が、別の服屋では店員に尊大に振舞う。都会人は常に、潜在的に被害者であり加害者なのだ。彼が、男を誤って殺したと思い込んで、車の合間を縫うように逃げ走る場面は、他人を突き飛ばした者が、他人に突き飛ばされないよう警戒しながら逃走するという、ロメールらしい箴言めいた戯画。

五本目のジャン=リュック・ゴダール、本編も面白かったけど、冒頭の、カラーのサイレント映画とも呼ぶべき短いシークェンスが妙に味わい深い。また彼は他の作品でも台詞を遮るようなノイズを挿し込む事が多いが、今回も、恋人同士の会話に、鉄を溶接する作業の音が介入してくる。二兎を追う者は一兎も得ず、という話に、少し知的・論理的なエスプリを利かせた脚本。女の子の可愛らしさも、さすがゴダール。彼女が最後に追い出された時「アメリカ女」と罵られていたが、ドゥーシェの作品と合わせて、パリジャンにとってアメリカの女とは何なのか、とちょっと気になる。

六本目、クロード・シャブロル。若い家政婦が、ブロンドの髪、露出度の高い黒のメイド服、という扇情的な姿で家の中を歩く様子がどこかシュール。先のゴダール作品では、無音の状態から音声が入る事でドラマが開始されていたが、シャブロルの場合、終盤に少年が、両親の喧嘩を聞くまいと耳栓をした事で、それまで展開していたドラマが断ち切られ、停止する。少年は、父親が家政婦と抱き合う光景に遭遇したり、両親が食卓で機嫌悪そうに話していても、その状況から自らを切り離している。結果、階段から転落して瀕死の母の声に少年が気づかない、というカタストロフが訪れる。関係の切断を強いる状況と、関係を切断された事で破綻する状況。最後、少年が街中に独り佇むショットが現れ、聴覚だけでなく視覚的にも、少年と家庭との関係が切断されるのだ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)赤い戦車[*]

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