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[コメント] アイガー北壁(2008/独=オーストリア=スイス)

的確なショットを重ねることで、登攀という行為に於ける、またその行為を取り巻く状況との間にある、距離感を演出する構築性。登山道具「ハーケン」の名が出るたびにハーケンクロイツを連想させる時代背景も効いている。だがヒロインの人物造形は痛恨のミス。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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列車に乗ってくる途中で見上げるアイガーは、その大きさも、雄大な美しさとして捉えられる。その純白の美を捉えたショットと、登攀の対象として捉えられたショットに於ける、青く暗い色。そして登攀シーンでは、その巨大さはそのまま山の凶暴さとして現出する。落石にしても、雪崩にしても、頭上から物体が落ちてくることの恐ろしさは、上方が見えないという不確実性による。山の巨大さを俯瞰で捉えたショットといい、殆ど直角に切り立った岩壁に張りついた登山者の周囲にはただ虚空しかないことを示すショットといい、やはり「ショットが撮れているか否か」は映画のアルファにしてオメガなのだと思えてくる。その点、山登りと映画作りの区別すらついていない様子の『劒岳 点の記』などと比べたら一千万倍も優れている、というか、比較すること自体が失礼ではある。

本当に僅かしかない足場の上で展開する人間模様は、恐ろしいまでに開かれた空間でありながら、他に誰も居らずその場に固定されているという意味で、一種の密室劇のようでもある。登る行為だけではなく、その場に留まることもまた窮屈かつ危険な状況なのだ。

岩壁にへばりついた状態で見返す、夜のホテルの、小さく転々と光る灯。逆に、日中にホテルのテラスで望遠鏡を覗く宿泊客から見える、登山者たちの小さな姿。冒頭の回想シーンでルイーゼが、トニーの言葉として語る、下から見上げた時には無理だと思えた山が、山頂から見下ろすとまるで印象が違うという言葉に見られるように、手が届かない遠さへの挑戦というのが物語の主題ではある。トニーがホテルの灯を最初に見るシーンでは、その灯にルイーゼの存在を見ているのが窺い知れ、トニーはアイガーに挑むことで、ルイーゼとの距離を越えようとしているのが感じられる。

だが、その挑戦に伴う悲劇は、トニーらの後を追うように登っていたオーストリアのチームの一人に、トニーらがハーケンを打ち込んだことで飛散した石の欠片が衝突するシーンや、トニーのすぐ下を降りていたアンディの死、救援に来たルイーゼらと、もう少しで手が届きそうな距離で宙吊りのまま死亡するトニーなど、人と人との距離が接近した状況で起こる。登山者たちは、目的を同じくする者同士としてすぐ傍にいるのであるし、ルイーゼらがトニーと接近していたのも、彼の命を救おうという目的に一緒に向かっていたからだ。距離が遠く、互いに声を交し合うこともできない者の間には、そうした、真に運命を共にしている距離感がない。だからこそ、ルイーゼの上司は彼女に望遠鏡を覗かせなかったのであり、逆に、登攀の危険性を実感し始めたルイーゼは、トニーらの許に、無謀なまでに接近していくことになるわけだ。

だが、真に冷酷なのは、アイガーの自然というより、ヒロインであるルイーゼだろう。自然は人間に対して単に無関心なだけであり、もとより人間的な善悪の彼岸にあるから構わない。だがルイーゼは、最初の頃に自分が、お茶係から一気に記者に昇格する野心の為の踏み台として幼馴染の二人を見、その挑戦の危険性に全く関心を見せていなかったくせに、事が終わった後には、そうした冷酷さを全て上司に押しつけるように、「ベルリンには帰りません。もう貴方のような人たちにはうんざり」などと言って、あらゆる責任から逃げ出す。その言動をこの映画は、一人の女性の毅然とした姿勢のように描くことに微塵の躊躇いもないようだ。

そして、カメラマンとして独り立ちしたらしいルイーゼが、哀しい過去を振り返りながらも、「私は愛した」という美しい部分を切り取って、満足げな表情を浮かべつつ煙草を吸う。そんな彼女のアップで美談を捏造して終わることのおぞましさに対する鈍感さ。それゆえ、ルイーゼが言う、無責任かつ自己愛的な「愛」とやらは一体何なのかという疑問を覚えずにはいられない。ここは脚本か演技指導のどちらかで何とかするべきところであって、監督兼共同脚本のフィリップ・シュテルツェルの罪は大きい。このヒロインの扱い以外は褒めるに値する仕事をしてくれているだけに、致命的なところでの失策が残念。ナチスが国威発揚の為にアイガー征服を求めていたのと、ルイーゼの考えなしの言動、どちらも冷酷さではいい勝負に思える。ルイーゼの性格がどうかということより、制作者側がその辺りに無神経すぎるのが問題なのだ。

(評価:★3)

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