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[コメント] 竜とそばかすの姫(2021/日)

終盤に一気に濃度を増す、この独特の気持ち悪さと苛立たしさの正体とは、ファンタジーを通して現実に立ち向かっているつもりのファンタジー(=絵空事)、という幼稚なナルシシズムだ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







細田守は色んなインタビューで、誹謗中傷などのマイナス面が取り上げられがちなネットの肯定性を描きたいなんて言っているが、要は、生身の人間同士がつながり合う助けになる道具として肯定しているのであって、ネット独自の「もう一つの現実」などには、価値を見出していないのだろう。

まず、冒頭から機械的な声で、ここはこういう舞台ですよと解説が流れる中、壮大に描かれている風な仮想空間「U」に、生活感がない。遠景で捉えた全体像のデザイン的な造形にしか意識が向いていない。その内部でアバターたちが住人として暮らしている感じが希薄。単に「SHOWROOM」の配信スペースが巨大化した程度のものにしか見えない。具体的に、この空間でユーザーたちが何を楽しんでいるのか、全く見えてこない。

「U」のデザインを担当したエリック・ウォンという、ロンドン在住の建築家兼デザイナーだという人物は、ネットで見かけて細田が選んだらしいが、抽象的なデザイン性だけが際立っている。しかも大して美しくもなく魅力もない。スタイリッシュな骨組みという以上のものはない。建築の面が見えるのは「竜」の城だけだが、このデザインを担ったのは『ファイナルファンタジーXII』の背景アートディレクターである上国料勇氏らしく、さすがにゲームに関わっているだけあって、その建築物の内を歩き回れる空間を造形している。そうであるのが当然なのだが。「U」全体は、本当にネットの画像でパッと見てああイイねと拾って任せたのかと思えてしまう。

そして、あのクライマックスで、鈴が自らアンヴェイルされる必要があったのか、という大疑問。カメラの向こうから通話してきたのがベルだと、「竜」(のオリジンである、父親から虐待される少年)に信じてもらうには、ベルの姿のまま語りかければ済む話だ。それなのに、無の表情で淡々と「素顔で歌え」と繰り返し要求する、幼馴染の忍くんが不気味。見ていて嫌悪感しか覚えない。

要するに、ネットの匿名性の陰に隠れて発する声は贋物だという意識が細田の中にあるのだろう。どこがネットへの期待だ。「ネット上での自己実現?笑わせるな」という態度で、鈴=ベルを嘲笑っているようにさえ見えてくる。彼女がネット上で築き上げてきたベルという存在の価値など、結局のところ、細田は認めていないのだ。

そもそも、ベルが大スターになる過程が、参謀役の友人ヒロちゃんの手練手管でうまいことやりましたという語り以上には描かれていない。だから、忍くんの提言に血相変えて大反対するヒロちゃんと比べても、一応苦悩の表情を見せてはいる鈴のその葛藤に感情移入するのは難しい。単に恥ずかしがり屋だから悩んでいる程度の背景しか感じられない。ベルが最初に「U」に登場して早速歌い始めた際には、不慣れなストリートミュージシャンのように戸惑いがちだったが、すぐに素晴らしい美声で歌い上げ、支持者はグングン増えていく。最初の出だし以外ではなんら苦労していない。アバターの姿で「U」に存在することそのものに慣れていく過程もなければ、ファンを励ましたり逆に励まされたりといった、「U」内での心の触れ合いも描かれない。

鈴が幼少の頃から音楽に興味を示し、曲を作って、という姿は描かれていたが、要は、そうしたディテールは現実世界にしかないのだという認識なのだろう。そして、傍にいた母親が、どこかの知らない子を助けるために自らを犠牲にしてしまったトラウマで、鈴は歌えなくなるのだが、この母親の描かれようがまた、最初から死ぬために登場させられたような抽象的な母親像でしかない。鈴と歌の関係というディテールを描いていてさえ、感情の醸成に成功しているとは言い難いのだ。

ベルと竜が関係性を結んでいく過程も、「U」の自警団に追いかけられた際に竜が守ってくれたという以外は、竜の屋敷のバラをそれぞれ胸につけて手を取り合って、などといった、『美女と野獣』をディズニー風のイメージでなぞる程度のことしかしておらず、こちらが感情移入できるような、具体的で細やかな描写など何もない。

竜は、他人のアバターを壊すという、結構酷いことをやっているようなので、皆から嫌われ、自警団から追いまくられるのも、それはそれで当然ではないのか。要はネット上の死を与えて平然としているケダモノということだろう? だが細田は、アバターが壊されるくらいで極悪人扱いすることないでしょ、生身が傷つくわけじゃないんだし、という程度の認識なのだろう。それが本音なのだ。

ベルという殻を自ら脱ぐという鈴の行為によって、彼女の誠意を表現していたのは、アバターとしての存在を犠牲にする行為というよりは、誹謗中傷・噂・嘘・悪口渦巻くネット上に生身の素顔を晒すことに、その犠牲的行為を認めていたからであるように思える。つまり、本当に傷つくのは生身だけだという価値観。だから暴力オヤジに鈴の顔を引っ掻かせたりするわけだ。

自らベルというヴェールをアンヴェイルした鈴が、竜のオリジン少年らの許へ単身向かうシーンは、少女が現実と立ち向かう姿をダイレクトに描いているのだが、暴力オヤジの待ち受ける場所へ一人で向かうのを誰も止めようとしないのは、鈴を、いたいけな少女としてではなく、一人の意志を持った存在として尊重しているということか? それ自体が、いかにもアニメ的な絵空事なのだが。普通に危ないだろう。コーラスグループのご婦人方は、まさにコーラス隊として声をかけるだけの無責任集団と化す。あとから事情を聞かされた鈴の父も、LINEで連絡し合いながら、「危険だから一人で行くな」とも言わず、娘の意思を尊重する「理解ある父親」として、危機意識の欠落したぬるい言葉を送信するのみ。

そして、暴力オヤジは鈴の目力に押されて腰砕けになってしまうのだが、これは、彼と同じく独善的な男である自警団のリーダーが、絶対的な武器だと思っていたアンヴェイルを自らに向けるベルに気おされていたのと重ねられているのだろう。このあとで竜少年が、鈴に抱き締められた感触で、彼女をベルだと確信したと言う台詞も、「U」内で一対一で向き合った経験が現実とリンクしたということだ。だが、睨まれただけでオヤジが腰砕けするのは、非力な少女でもその意志の強さで何事もなし得るのだという、いかにもアニメ的で類型的なファンタジー。例えばあの場で鈴が歌い始めて、窓から顔を出したご近所さんたちが「え?ベル?」「あ、アンヴェイルされていたあの子だ!」と色めき立つのにオヤジが怯むという方がまだよかった。

そして、虐待されてきた少年らがその後どうなったのかのフォローもなく、竜少年の、自分も戦うよという言葉で希望を抱けと観客は求められてしまう。鈴らは、一仕事終えた満足感で愉しげに歩いている。これでは竜少年がモニター越しに叫んでいた通り、「助ける助ける助ける」と言いながらも彼らを悲惨な現実から実際に救ってくれた人はいなかったという現実がまた戻ってきただけの話じゃないのか。なんという陰惨な「ハッピーエンド」か。

結局、この映画はどういう話だったのか? 見ず知らずの子供のために、娘を残して自らを犠牲にした母親。その娘・鈴は、母親の喪失というトラウマを乗り越えるために、彼女自身がその母親と同じ母性的な自己犠牲を選び取る(自ら行なうアンヴェイル。暴力オヤジの前に単身立ちはだかる)。少女に、無条件の献身的な母性を求める、ロリコンとマザコンの混合という国産アニメの伝統が炸裂したと言える。しかもそれが、ファンタジーというヴェールをアンヴェイルした気になって、現実的な問題に立ち向かわせるという形を取ったせいで、その幼稚さと無責任さは醜悪なことになっている。

細田のインタビューでは、カンヌで上映された際に14分間ものスタンディング・オベーションがあったという話が出ていたが、まあ確かにアニメ映画としての完成度は感心する面がないわけではないにしても、こんなのに14分間も拍手し続けるなんてバカじゃないかと思ってしまう。ヴァーチャル空間と対照的な、河瀬直美作品に出てきそうな緑に包まれた日本の地方都市というのが海外受けしたのかなんなのか。

このスタンディング・オベーションはカンヌ歴代8番目の長さで、1番は『パンズ・ラビリンス』の22分間だというのだが、それを聞いて、自分がかつてその映画に投稿したコメントを思い出した。「感動的なのは、少女の空想とも、実在の地下世界ともつかぬ異界が、単に過酷な現実からの逃避先として描かれてはおらず、むしろ現実社会に於いては『子供』は免除されている闘いを、異界に於いては少女自らが主体となって行なっているところにある。」対してこの細田作品は、描いているつもりらしい「過酷な現実」が、アニメ的なファンタジーに包み込まれ、自慰的な満足に耽っている。

竜を救おうと鈴が駆け出すシーンでは、走りながら装置を着けて「U」の世界に入ってしまう。それでいて、ヒロちゃんの待つ校舎に普通に辿り着くのだ。「遅いよ」とヒロちゃんに言われはするが、一体、現実世界の知覚と「U」世界の知覚との干渉の仕方はどうなっているのか。全感覚で没入する世界のように描いておきながら、歩きスマホよりも現実に干渉しないかのような雑な扱い。ポケモンGOで死亡事故まで起こっているのを知らんのか。

その映像美をもってしても、華々しい失敗作と呼ぶしかないのだが、中村佳穂による歌の透明感と力強さは素晴らしく、これ一つで評点を1点上乗せせずにいられない。

(評価:★3)

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