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[コメント] 宗方姉妹(1950/日)

日本の古いもの、新しいもの、そしていつの時代にも変わらない何かについての考察。また、小津らしく若い娘の男選びの話であり、古今の様々な建築を観て回る映画でもある。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この時期の小津映画はしばしば若い娘が主人公を務める。未婚か、そうでなくとも何らかの理由で夫とは疎遠な、そして性格的には揃って片意地なヒロイン達。彼女達がドラマの主役に選ばれた事情には戦争が影を落としている。男達が戦場で死に、また生き残ってもひどく損なわれていたこの時代、新たな生活を始めるのは女―それも若い女でなければならなかったのだ。(後に社会が安定し始めると、小津の興味は娘から父へと移る。)

映画は近代日本の新しさの象徴である大学の構内から始まる。その新しさは敗戦によって最早色褪せつつあるのだが。符丁を合わせるように、姉妹の父が末期癌であることが明かされる。滅びるべき者は滅びる…それは確かな事だとして、では、残された者はどう生きればよいのだろう?新しい生活とはどこにあるのだろう?それを探るべく映画は様々な人生に対する態度(と様々な建築)を見てゆくのだが、小津の選ぶものは一つ―『古いものが新しい』である。

そう口にしたのは姉の節子で、しかし彼女は自分を古いと貶す妹への反発と、失敗しつつある結婚生活を否認しようとする依怙地からそう言っただけなのだ。インテリの夫はかつての新思想があっという間に時代遅れとなる戦後の変転の中で荒れている。夫婦の住む東京の賃貸住宅はただ惨めなだけである。部屋住みの妹の満里子は神戸の家具商・田代に憧れている。彼の西洋風の洒落た店は新しい何かを保証してくれそうに思える。満里子は恋敵の未亡人・頼子の家へ乗り込む。和洋折衷の素晴らしい住宅(建築家・前川國男邸だと思う)である。折衷する、とは大人の知恵であるから、そんな頼子を相手に幼稚な満里子は一人芝居を演じるだけである。老父は京都の寺で鶯の声に耳を傾けている。

節子は田代と新生活を始めようとして、しかしそうしない。彼女は古いものが捨てられない。信じるに足るものについに辿り着けなかった夫を自分は支えられなかった、という悔しさが彼女にはある。彼女は自分が信じるに足ると思うところのもの―『古いものが新しい』―に従いたいのだ。それが正しい、などとは小津は言ってはいない。彼もまた信じたいだけなのだ。古くて新しい、いつの時代にも不変のものは確かにある、と。しかしそれが何であるのかは、所詮一つの時代と共に生きるしかない私達には解らないことなのだ。小津はここでは不可知論者である。

話す二人を五重塔が見下ろしている。かつてそれを飾った煌びやかな異国的色彩は長い歳月に削り取られ、本来の美しいプロポーションが剥き出しにされている。この映画は小津にとっての一種の信仰告白である。それは存在する。そう信じるからそうなのだ。後の小津が、冠婚葬祭と飲食と遊びからなる人々の生活を淡々と写すだけの映画を、鮮やかなカラーで飽きることもなく繰り返し撮り続けたのも当然なのだ。ただ生活すること―そこに永遠の何かは存在する。それが小津にとっての宗教なのだから。

(評価:★4)

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