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[コメント] ヨコハマメリー(2005/日)

ドキュメンタリにおける「画面の作為性」の問題が、作品の強度を高める方向で解決されている。
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いかに中立的・客観的立場に立つことが心掛けられたドキュメンタリであっても、出来上がった作品には原理的に作為性が内在してしまう。それは、たとえドキュメンタリと云えども撮影され編集されなければ作品として成立しないからであり、云うまでもなく「撮影」とは無際限に広がる時間と空間を恣意的に切り取ること、「編集」とは撮影によって得た素材の取捨選択と並び替えに他ならないからである。作為性が内在するということはつまり、いかなるドキュメンタリ作品も決して「ありのままの現実ではない」ということを意味しているのだが、観客に「この作品はありのままの現実を映している」と思い込ませたいドキュメンタリは、おそらく何らかの形でその作為性を隠蔽しようとするだろう。

翻ってこの『ヨコハマメリー』であるが、この作品は決して作為性の隠蔽を試みない。むしろ剥き出しにしていると云ってもよいだろう。なぜそのようなことが云えるのか、ごく簡単に云えば、この作品にはしばしば劇映画的なカット割りや画面設計が見られるからだ。しかし、それはたとえばマイケル・ムーアの諸作のような、自己の主張の正当性を担保するための作為性ではない。中村高寛という監督が心掛けているのはひたすら「良いショットを撮ること」だ。そのためにドキュメンタリであるにもかかわらず作為性が前面に押し出されることになってしまってもかまわない。むしろ「メリーさん」にまつわるこのドキュメンタリにとってはそのほうが似つかわしい、中村はそう考えていたのではないだろうか。

いかようにも語ることができたはずの題材を扱っているこのドキュメンタリ作品に感動を覚えずにいられないのは、ラスト・シークェンスで顕著なように、作為性を帯びることを恐れないショットとそれに拮抗しうる被写体の魅力があるからだ。 それを端的に「美しい」と呼んでしまうことは決して許されないことではないだろう。

(評価:★4)

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