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[コメント] ザ・フォッグ(1979/米)

恐怖のメロディ』とは対照的な作劇上の方法論で「DJ」をよく活かしている。複数の場で並行する物語のラインを「ラジオ放送」で横断的に結びつけつつ、それらを最終的に教会とラジオ局の二本に縒り合わせ、自在のカットバックで緊張感・恐怖感を操作する。ほとんど匠の技だ。カーペンターは巧い。
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(曾)祖父母世代が当事者であるだろう「一〇〇年前」にことの発端を置くといった距離感や、「呪われた町」(住民としての原罪、と云ったら少々大袈裟だが、自分の自由意思とは無関係なところであらかじめ罪を背負わされている)という設定部分がまずよい。だからこそ不満であるのはむしろ、「霧」という不定形の恐怖をフィーチュアしながら「幽霊」には実体を与えて物理的暴力を行使させてしまったことではなく(これは古典的なホラーのムードと同時代的な直接的ショック演出の共存を目指したものとして好意的に見ることもできます)、犠牲が町全体に無際限に波及しないことだ。もちろん、平等に罪を背負っている住民全員が攻撃の対象となりながら実際の犠牲者は一〇〇年前と同じく「六人」に限られるというのは、幽霊たちの復讐の論理にはよく適っている。しかし、ここで積極的に放棄すべきはその論理こそではなかったか。論理が明らかになったとき、それは私たちにとって理解の可能な対象となり、恐怖の底は割れる。『』までにはいまだ大きな距離が横たわっている。

 さて、いささか唐突ながら、ここで私は黒沢清の名前を引き合いに出したいと思います。恐怖表現における彼の偉大さのひとつが上に述べた事柄と関係しているからです。『回路』において、あるいは『』において、作中人物は幽霊の攻撃の論理を語り/推測します。しかしながら、それは少なくとも私たちの感情の次元においてはまるで受け容れがたいものなのです。要するに、理解できそうでできない脅威。それはまったく理解不能・意味不明の脅威よりも恐ろしいのだ、というのが黒沢の恐怖演出の主張であり、私はこれに首肯してみたいのであります(もっと話を一般化してみましょう。「世の中でいちばん恐いのは人間だ」という物云いを私たちはしばしば耳にします。なぜ人間は恐ろしいのか。それは私たちにとって理解可能な対象のはずでありながら、同時にどこか絶対的に理解不能な部分も抱えた存在だからではないでしょうか)。

(評価:★4)

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