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[コメント] ぜんぶ、フィデルのせい(2006/伊=仏)

これが文字通り「子供の視点」による映画であることを鑑みてもなお、このフレーミングやカッティングには違和感を覚えずにいられない。またシーン間でどれほどの時間が経過したのかも判然と示せていない。要するにヘタな映画なのだが、そんなことどうでもよいのだ、と思わしめる力も持っている。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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私は所謂「アイドル映画」の定義を知らないが、それを仮に「主演者の魅力を最大限に引き出すべく種々の要素が按配され、またもっぱらその彼/彼女の魅力でもって成立している映画」とでもするならば、これは主人公の少女アンナを演じるニナ・ケルヴェルのアイドル映画だと云ってもさして間違ってはいないだろう。ここでジュリー・ガヴラスがひたすらに力を注いでいるのはこの少女を魅力的に撮ることではないか。そうであれば、それは成功を収めていると云ってよい(だから「子供の成長および子供の視点から見た大人の社会を描いた作品」などと要約してしまえば「ありがちきわまりない映画」と云わざるをえないこの『ぜんぶ、フィデルのせい』にユニックな点があるとすれば、それはこれがあろうことか「仏頂面の」少女のアイドル映画として撮られていることでしょう)。

たとえば「衣裳」。ケルヴェル一家は(彼女自身の言葉を借りれば)「貧乏」になったのにもかかわらず、彼女の衣裳はころころと実によく変わる。むろん「貧乏」と云っても着る物に困るほどではまったくないのだから、むしろ同じ衣裳を着せ続けるなどしたほうがリアリティを欠くことになるだろう。しかし映画は彼女の家庭が「裕福」であった頃をほとんど描いていないのだから、「貧乏」を視覚的に印象付けるためには「同じ衣裳を着せ続ける」程度の演出の工夫があってしかるべきだったのではないか。だがガヴラスはそうしない。ケルヴェルになるべく多種の衣裳を着せ、その魅力を引き出す。これが彼女のアイドル映画であるならばその判断は正しい。よく変わる「髪形」についても同様に考えて差し支えない。

ところで、映画において被写体が魅力的に映るのは、それが「運動」しているときだ。ケルヴェルのことも魅力的に映したいのならば、彼女の「運動」を撮ってみせるのが手っ取り早い方法だろう(もちろん、どんな「運動」、どんな撮り方でもよいわけではありませんが)。しかし冒頭で「走るのは嫌い」と云うように、彼女はほとんど「運動」しないヒロインとしてある。全シーン出ずっぱりのケルヴェルだが、カメラに捉えられていた時間の大部分が「座って」誰かあるいは何かを「待つ」ことに費やされていた、そう云っても過言ではないと思えるほどだ(確かに水泳のシーンが何度か出てはくるが、それは「運動」として捉えられているとは云い難い)。

ケルヴェルを魅力的に撮るべきアイドル映画としてはこれは由々しき事態なのだが、だからこそ彼女の「運動」を捉えた数少ない瞬間がより輝く、とも云える。親たちが選挙結果の出るのを待っているパーティでの追いかけっこ。家出、つまり弟の手を引いての速歩き。そしてラストショットにおける遊戯、すなわち同年代の子供らと輪になって回ること。これら三つは私が最も強い印象を受けた「運動」を物語の進行の順序に従って並べたに過ぎないが、そこからさらに次のように云ってみることもできるだろう。

「追いかけっこ」「手を引いての速歩き」「輪になって回る」は、正しくこの順序で他人との結びつきの度合いを強めている。ケルヴェルの成長、すなわち彼女が「世界(社会)との手の結び方」(これは必ずしも「妥協」ではない)を学んでいく過程は、物語の展開とはまた別にこのように「運動」の変遷としても刻まれているのだ。まあそのような理屈、私にとっては別にどうでもよく、とにかくラストの円運動にはばっちり感動した、ということ。

(評価:★3)

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