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[コメント] ゴールデンスランバー(2010/日)

「媒介」の映画。あらゆるモノやコトが媒介と化して「暴力的に」人々を接続する。それは「伏線の張り方が周到である」とか「作為的である」といった言説とは次元を異にする、この映画世界のシステムである。そしてそのシステムを起動させる動力を、この映画はとりあえず「信頼」と名づけている。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







現在時制のシーンにおいて、堺雅人竹内結子はワンカットたりとも同一のフレームに収まることがない。確かにラストシーンであると同時にファーストシーンでもあるエレヴェータの場面では「青柳雅春」と「樋口晴子」がワンフレームに同居するが、そのとき青柳を演じているのはもはや堺ではなく、滝藤賢一という俳優である。堺と竹内の間の距離は残酷に保たれつづけている。しかしカローラの「バッテリ」や、その車に残された「メモ」や、「偽のマンホールの蓋」や、「大外刈り」や、竹内の娘の「『たいへんよくできました』のスタンプ」が不意にふたりを接続する。その接続の仕方は香川照之永島敏行が象徴する暴力的権力と正確に対置されているという点、また「もっともらしさ」を徹底的に無視しているという点で二重に暴力的である。最たる例は、この映画で最も感動的であった「花火」だろう。マンホールの蓋を吹き飛ばして打ち上がる無数の花火。まず、その「無数」という数量の過剰さと、わざわざ労を割いてまでマンホール内に仕込む必要などありはしないのにもかかわらずそうするというもっともらしさへの頑なな反抗ぶりが正しく映画的なのだが、この花火はその映画性の大きさにふさわしく、堺と竹内のみならず、劇団ひとりソニン渋川清彦安藤玉恵柄本明波岡一喜や、果ては敵対する香川ら警官たちまでをも一挙に接続してしまう。そして宙に咲いた花火を撮ったカメラはそのままティルトダウンして学生時代の堺たちの後ろ姿を写し出す。こうして花火を媒介としてふたつの時空が接続され、遂にはひとつのフレームの内で堺と竹内が身体的距離を無とする接続=「キス」を果たす。

あるいは、伊東四朗木内みどりにとっては「痴漢は死ね」の墨書、渋川にとっては浮気の密告を受けた「安藤玉恵」そのものが媒介となって、彼らは堺の生存を知る。しかし当の堺だけがこの映画世界を司るシステムに無自覚だったようだ。だから滝藤の顔に変わった彼は「たいへんよくできました」のスタンプを押されてあっけにとられたように立ち尽くす。ことを了解するころには竹内は下りのエスカレータに乗って視界から消え去ってしまっている。「帰るべき故郷」だった学生時代にはもう戻れない。顔は変わり果ててしまった。家族や友人たちにももう会えないだろう。ただ生きながらえた。「ロスト・イノセンス」という物語類型の一変奏としての『ゴールデンスランバー』が提示するのはきわめてねじれたハッピー・エンディングだ。

(評価:★4)

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