コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 七つまでは神のうち(2011/日)

物語の底が割れてからは(私にとっては日南響子飛鳥凛藤本七海が集合するシーン以降)、やはり映画も観客もテンションを維持するのが難しくなってくる。それでも残酷描写を持ってきたり、現実に即した合理的思考では割り切れないイメージを置いたりと、演出家は策を講じるのを忘れてはいないけれど。
3819695

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







私は物語を読むことにかけては致命的な欠陥を抱えているので、不用意なことを口走るととんだ赤っ恥をかくはめになるのだけど、結局のところバンの助手席に座った木乃伊遺体は霧島れいかということでよいのかしら。であるならば、やはりこれは大きく括れば心霊譚であったということが示されているわけで、理詰めで風呂敷を畳んでいった後にこういう宙吊り感覚を残すのは不味くない。

さて、細部について話をしてみたい。まず、後に竹井亮介であったことが判明する男の「作業着」と、彼が乗り回す車であるところのまったく尋常な「バン」という細部選択が抜群によい。物語の最序盤で日南はこの作業着男がバンに若い女性を拉致しているのを目撃するのだが、以上の細部選択のために、男は金銭や性的快楽を目的としたきわめて世俗的な犯罪者にも見えるし、狂気の主のようにも見える。同時に、一向に顔を晒さないこと、プロローグの神隠しエピソード、そして演出のトーンは、彼が超自然の心霊的存在である可能性も排除しない。いずれか一方には転ばないこの按配こそが恐怖の源泉である。してみると、彼が手にする「バール」は作業着とバンに比べれば劣るが、日常性と異常性が拮抗してまずまずベターな選択だろう(恐怖映画に登場する攻撃者が持つ凶器の中で、普通と奇妙、違和感と納得感が最も絶妙の按配を獲得しているのは、私の知る限りではやはり『悪魔のいけにえ』におけるチェインソーでしょう)。「逆再生音声」で喋る人影というのもいい。

ジャンルに準じ/殉じるがごとき「森」「廃校」「市松人形」などの選択も積極的に悪くはないが、もうひと工夫ふた工夫ほしいと思うのが人情というものだろう。人形の顔面は予想を越えた不気味さに仕上がっていたけれど。初めに述べた残酷描写、すなわち飛鳥が燃やされて藤本が串刺しの目に遭うシーンも、恐怖と笑いは表裏一体であることを示し、また物語を閉じてゆく過程のアクセントとして働く点で決して不正解の演出ではない。したたる血液のぬめりのために胴体を貫く棒を掴むことすら難儀する、という着想はすばらしいとさえ云ってよいが、ここにこそ引きの画がほしい。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。