[コメント] こわれゆく女(1975/米)
確かにカサヴェテスは(クラシックな意味での)「完璧な画面」の構築よりも芝居を優先させた作家なのだろう。しかし、あるいはだからこそ、カット割りに関してはきわめて自覚的だ。カットの切り替わりは原理的に時間に切れ目を生じさせるものであり、芝居の連続性や緊張感までも途切れさせてしまいかねない。ゆえに芝居を重視する演出家には長回しを重用する者も多いのだが、ここでのカサヴェテスは同じく芝居を重視していながらも徹底してカットを割っていき、そしてカットが切り替わる度に緊張感を増大させることに成功している。(もちろん自然な=時間の不連続を感じさせないカット割りも多く使われているが)それはあえてカットを割ることで意図的に時間の連続性に(ごく微小な)断絶を発生させ、それによって不穏に張り詰めた時間を顕在化せしめているためではないだろうか。
「映画」は時間と空間の問題に還元される。その特徴的なフレーミング(空間把握)をもって「空間」と格闘していたように、カサヴェテスはまた「時間」とも格闘している。その態度は「映画」に対する倫理と云いうるものだろう。
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