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[コメント] ブランカとギター弾き(2015/伊)

ペーパー・ムーン』『都会のアリス』『グロリア』『パーフェクト ワールド』『セントラル・ステーション』など、私が「ふとしたことから見ず知らずの大人と子供が同道し、紆余曲折を経て情を通わせ合うに至る」説話を偏好していることは白状するが、これは大人と子供の反発が小さい点でむしろ珍かだ。
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ピーター・ミラリは老齢かつ盲目のしがない辻ギター弾きでしかないため、少女サイデル・ガブテロの具体的身体的危機を救うには足らない。非力な存在である。しかしガブテロが何をしようと、ミラリは少しばかり困惑を訴える程度で鷹揚にすべて受け容れてしまう。ミラリの内に理由も背景もなしに成立したこの包容力によって、ピースフルな幸福感が全篇に沁みわたっていく。

もっとも、理由も背景もないとは、ガブテロがミラリに懐くことがまずそうだったはずだ。冒頭、ミラリが奏でるエレクトリック・アコースティック・ギターの音色を耳にすると、彼女はどういうわけか矢も楯もたまらないといった風情で音の鳴るほうに向かって駆け出す。映画はその心裡について一切の解説を試みないが、どういうわけか彼女はすでにこの時点で決定的にミラリに好感を抱いている。しかし、どうもこの理由の欠如ぶりこそが映画においては感動を発生させるらしい。(※)

さて、長谷井宏紀の優れた演技演出についても、このガブテロとミラリの出会いのシーンを例に記しておこう。ギターの音に惹かれて駆け出したガブテロは、ミラリから少し距離を置いたところに腰を下ろす。そして演奏に見入っている最中、彼女は「地面に落ちていたカラーひよこ(!)を掌に載せ、しばらくしてからそれをしかるべき台の上に戻す」。何気ない所作だが、これがあるのとないのとではシーンの面白さは段違いだ。翻って云えば、シーンが漫然と流れてしまう映画は、このように小さくとも有効な演出を欠いているに違いない。

同様に、彼女が寝泊まりする段ボール小屋の窓が「ハート形」にくり抜かれてある、というのもいい。やはり実に小さな演出だが、これこそが小屋に対する彼女の愛着を画面上に描き出している。また、それがために、この小屋が破壊されるに至って私たちは彼女とともに心を痛めることになるだろう。

最後に、ガブテロの歌唱に関しても触れておきたい。目立って音程を外していないという程度で取り立てて巧くもなければ、大人どもが身勝手に子供の歌声に期待するような透明感のある美声というわけでもない。しかし私はこれにいたく心を動かされた。そもそも彼女はユーチューブ上の歌唱動画で見初められてブランカ役に抜擢されたそうで、私も遅ればせながらそれを拝見したが、美空ひばり小林幸子、の域には遥かに届かないにしても、そういった類のいかにも「天才少女歌手」風に達者な歌いぶりが披露されていた。それはブランカとしての歌唱とはだいぶ異なる。これがまた長谷井がいかに優れた演出家であったかの証でもあるが、すなわちブランカとしてのガブテロは本来の彼女よりも意図的に技巧を封じて歌っているのだ。代わりに、真っ直ぐ、伸びやかに歌声を解き放っている。それが私の胸を打った。もはや云うまでもないだろう、その通り、私はかもめ児童合唱団のファンなのだ。

(※)おそらく、「理由(の描写)」は作中人物の感情や行動に一定の納得性を与える一方で、感情や行動の強度をその「理由」の内に限界づけてしまう。往々にしてそれは感動に及ばないのだろう。しかし、むろん、ただ理由(の描写)を欠いてさえいれば万事快調にことが運ぶわけではない(それは単なる作劇の不出来に過ぎない)。理由の欠如を補償するものがここで要求される。その具体例は無数にあるだろうが、仮にひとつを挙げれば、作中のガブテロが随所で示していたような「表情の魅力」がまさにそれだ。

(評価:★4)

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