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[コメント] 鬼火(1963/仏)

ルイ・マルによる「人間失格」、「日々の泡」。繊細すぎる凡人の目には、かえって世界の偽善と虚栄、汚濁、そして己の無力が映りすぎ、この世界の当事者であることは過酷すぎる。寒々しい生の全否定に見える一方で、こんな解釈もあったりする(たぶん)。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







生きる理由はないが、また、死ぬ理由もない。 人生への軽蔑を示すべく、我々に残された唯一の方法は、それを受け入れることである。 人生は、苦労して捨てるほどの価値もない。

ルイ・マルが本作のモデルとしたダダイスト、「ジャック・リゴー」の「遺稿集」からの言葉である。リゴー自身も自殺した人物で、行動と言動に矛盾が生じるようだ。自殺したからには人生の価値を認めたのかと。一歩進んで、坂口安吾が言ったように、「(厭世の)自殺者は最も善く生きようとした(が出来なかった)人間」であるケースも存在するはずである。アランはある意味偽善を告発しながら「理想」に殉じた人間であって、その、「最も善く生きたかった(はず)」の「理想」に私は惹かれる。世界は今、「あるべき形」にない。しかし「あるべき形」であれば、またそれを目指そうとするのであれば生きるに値するのだ、と。

こんな解釈もあっていいものだと思います。たぶん。

なお、原題の「ウィル・オ・ウィスプ」とは下記通りのものです。鬼火となったアランの光をかざして煉獄を歩くのは、私たちなのかも。

それにしても寒い。ひたすら低温の画作りである。

(wikiより抜粋)

その名は「一掴みの藁のウィリアム(松明持ちのウィリアム)」の意。それを裏付ける伝承が下記のものである。 死後の国へ向かわずに現世を彷徨い続ける、ウィル(ウィリアム)という名の男の魂だという。

生前は極悪人で、遺恨により殺された後、霊界で聖ペテロに地獄行きを言い渡されそうになった所を、言葉巧みに彼を説得し、再び人間界に生まれ変わる。

しかし、第二の人生もウィルは悪行三昧で、また死んだとき死者の門で、聖ペテロに「お前はもはや天国へ行くことも、地獄へ行くこともまかり通らん」と煉獄の中を漂うことになる。それを見て哀れんだ悪魔が、地獄の劫火から、轟々と燃える石炭を一つ、ウィルに明かりとして渡した。この時にウィルは、この石炭の燃えさしを手に入れる。そして、その石炭の光は人々に鬼火として恐れられるようになった。

(評価:★4)

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