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[コメント] 牡蠣の王女(1919/独)

人間を止めたがっている者ばかりが登場するこの人間機械論は、映像でもってなされるギャグのひとつの源流という感触がある。現代のユーチューバ―が科白無しのギャグのスケッチを撮ったら、相当数が本作に似てしまうのではないだろうか。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
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結婚したいオッシー・オスヴァルダのヒステリー発作の破壊行動凄まじく殆ど盛りのついた動物である。冒頭の四人の黒人から王女入浴の流れ作業、(内輪の)パーティのディナーの派手な振る舞いまで、下僕たちは順列組合せの機械のようだ。草創期の映画は『バレエ・メカニック』(24)など人間機械論を主題とした作品を多く物しているが、本作もこの潮流に含まれるだろう。

結婚相談所のパネルの群れは人間をすでにデータ扱いしているし、暇つぶしに床の模様に沿って踊りまくるユリウス・ファルケンシュタインの件も、機械になりたい人物を描写して抜群だ。昼寝し続ける異様な顔アップ連発の肥ったブルジョアヴィクトル・ヤンゾンもまた人間を止めたがっている。この社長は牡蠣だ。本作に牡蠣は登場しないが、この社長が自ら牡蠣になっているのだった(『バートン・フィンク』はこの引用乃至パクリに違いない)。

終盤の三角関係はルビッチらしくなるが、従者が代理で結婚を済ましていて「君はもうすでに結婚している」と報告する収束がまたもの凄い。ハリー・リートケの個人の尊厳とか心など見事に無視した機械論、情報処理の流儀でこの結婚は処理されたのだった。素晴らしい。

(評価:★5)

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