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[コメント] マッスルヒート(2002/日)

ゲーム的。そこには理由がない、物語がない。余裕も、ユーモアもない。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







近未来の東京、その一画に吹き溜まりのように形成された混沌亜細亜な暗黒街を舞台に、鍛えられた強靭な肉体から洗練された本物のカンフーが繰り出される邦画初の本格カンフーアクション映画…というのが、この映画の“ウリ”。

ケイン・コスギに指導もしたという“本家”ジャッキー・チェンの映画だってよく知っているとは言い難いのだけれど、それでもこの映画を観ていてどこか手応えのない空虚さに見舞われるのは何故かと言えば、それはやっぱりこの映画が「ゲーム的」だからじゃないのかと思う。あちこちから取って付けたような筋書き自体、キャラ立ちもへったくれもないんだが、映画の展開もその筋書きの弱さをなぞってみせることしか出来ずに、敵キャラを倒せばつぎにまた少しパワーアップした敵キャラが現れて…といった具合で進行、最後の対決に至り加藤雅也とケイン・コスギがぶつかり合うも、やっぱり不完全燃焼な“決め”のショットで画面はホワイトアウト……そして、「何故、闘うのか?」といったからっぽな問いだけが暗闇に反響する。

そう、そこには理由がない、物語がない。故にどのアクションにもそれが人物の実存と本質が渾然一体となって本当に燃えあがってくるような高揚感がない。たとえばそこで、過去のジャッキー・チェンの映画を思い出してみたっていい。誰でも子供の頃に一度はテレビ等で観たことがあるだろう、それらの映画を思い出してみて、どんな違うものが見出せるだろうか。そこにだって主人公が闘うべき劇的な理由や物語なんて大してなかったかもしれない。ではそれらは何故それでも面白かったのか。それは、そこには余裕が、ユーモアがあったからじゃないのかと思えてくる。生の人間の肉体が瞬間毎に垣間見せる無駄な遊び。それがユーモアを呼び込む。人間の肉体が、不安定でいい加減で、けれど強靭な存在であることを示して見せてくれる。ゲームの如く状況が断続的に移り変わって進展するこの映画には、物語を生きる人間の劇的な高揚感も、無駄な遊びを演じてみせる余裕もユーモアもない。地に足付かない世界の中で、地に足付かない人間達が、地に足付かない格闘を演じてみせても、それは歴史にはならない。

(細かいところでいいところはあるんだ。捕われの博士の幼い娘の演技とか、それを逃がそうとして殺される渡辺典子演じる母親の死に際とか、哀川翔のあきらかに場違いなカタカナ英語とか、哀川翔の思わず笑ってしまうような目の引ん剥き方とか、哀川翔の猪突猛進な不死身っぷりとか。)

(評価:★2)

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