コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] わたしはロランス(2012/カナダ=仏)

グザヴィエ・ドランが本当に興味があるのは、たぶん映画というよりは物語であり人間。それでいけないということは取り敢えずないけども…。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭、カーテンの風に揺れる無人の部屋のファーストショット、画面はスタンダード。それだけで、少し心が動く。それからキャメラは外に出て(?)一人の青年の執拗なキャメラ目線(クローズアップ)、これでまた少し心が動く。…これは結構イケるんじゃ、などと生意気にも思いだして、妙に嬉しく期待し始めた矢先、しかしその視線が、どうやら霧の中を行く主人公らしき女装の人影(胯の開き方は男のものに見える)への好奇の視線として撮られていたらしいことに気がついて、途端に期待は萎んでしまった。

小津、とかなんとか、そんな名前も意識しなくはないようなフィックスの画面。ダイアログを撮ろうとして人物に執拗に肉薄していたハンディのキャメラから、ふっと正気を回復して(?)テンポを整除しようとするかの如くそんな画面になる。あるいは事あるごとに挿入されるタイトルのタイミングなど見ていたら、「ゴダール?」、とかなんとか、そんな名前まで想起してしまったりもする。いろんな撮り方を織り交ぜている感じがする。が、それもこれも、結局は物語を語りたい、人間を描きたいという欲望にこそ準じているもののように思えて、いまいち「映画を撮りたい(映し出したい)」という願望にはなっていない感じがしてしまう。冒頭の失望は、そういう失望だった。

物語、人間、それでいいじゃないか、とは言えるかも知れない。大体、映画に物語も人間も介在しなかったら、まるきりからっぽでしかないのじゃないかとも言える。しかしなんだか、それでは物足りなくはないか。たとえば小津にせよ、ゴダールにせよ、映画らしい映画を撮ってきた人達の映画は、根本的に「映画」が、てんでばらばら支離滅裂の、カットとカットがつながって見えていること自体がむしろキセキ的なのだとでも言いたくなるような、そういう自己矛盾的で自己否定的で脆弱なシロモノだという直観のもとに生み出されていたと感ずる。それが、物語やら人間やらを自明にそこに存在するものとして措定した途端、映画は映画足り得なくなって、即ち映画なりの仕方で事物(物語にせよ人間にせよ)を捉まえる(映し出す)ことも出来なくなってしまうのだと思う。

意匠としては、いろんな撮り方をわきまえているようでも、そのじつそれは映画ではないような感じがしてしようがない。いまどきべつにミュージッククリップでも小津やゴダールの真似事は普通に出来るだろう。微妙だが、何かが違う。何が違うのか。

一つ言えるように思えるのは、映画は、たぶん現在の際どさをこそ顕わに映し出すもので、時制で言えば現在形でしかないということ。それを敢えてこの作品のように過去形の物語として語ることは、映画の中の時間をも、その全体を自明のものとして措定することでしかないということだ。(映画の中で時制のタイトルが出てくるたび、映画は物語に自らを譲り渡していく。)時間を全体として自明視すると、その瞬間その瞬間の決定的な不可避性は曖昧になって見えなくなっていく。その点でもやはり、そこで見出されようとしているのは物語の予定調和でしかないのではないか。つまり換言すれば、そこには掛け替えのない現在そのもの(映画足り得る「その瞬間」)は決して映っていないのではないか。それでは物語(観念)に帰依することによる感傷は湧くけれども、事物の唯一性を発見することによる感動は生まれない。(たぶん映画というモノだけに本来的に可能なのは後者だけでしかない。)

部屋の中で降り注ぐ水や、降って来るカラフルな衣類や、舞い落ちる落ち葉達の、あのギャグ一歩手前の節操もない“量”こそは、24歳という若さなのかとは思った。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (1 人)jollyjoker

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。