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[コメント] アメリカの影(1960/米)

飽くまでも脚本という楽譜の上(※)で、しかし即興なメロディやリズムとして揺らぎ、蠢く人間達の影。少なくともこの映画にあっては、人間とは映画であり、映画とは人間だった。

映画の中で人物の間にドラマが展開する。「ドラマ」とはたんに筋立てのことではなく、いわゆる“エモーション”のことだろう。それはセリフだけによるものでもアクションだけによるものでもなく、それらの渾然一体となった生身の人物同士の実存的な相克として映し出される。それを「人間」と言うなら確かにカサヴェテスの映画には人間が映っているのだが、そこにあっての「人間」とは孤立的な自意識的主体と言うよりは飽くまでも相関的な情動的主体として生きている。

しかし逆に、ならばその映画には人間しか映っていないのではないか、などということにも決してならない。なんとなれば、この映画を見て当時のNYの繁華街の昼夜の光景を印象に刻まない人はいないだろうし、人物達の肖像を浮き彫りにするモノクロの陰影(“shadows”)の必然性を意識しない人もいないだろう。

即興的なジャズのリズムやメロディは、やはり飽くまでも人物達の生理的な律動として映画の中に鳴る。つまりそこに映っているのは人間であり、と同時に映画そのものなのでもある。

(※)台本なしの即興演出の映画とは言われますが、大事な場面にはやはりセリフに関する台本はあったものの様に自分には見えます。実際現行のセカンドバージョンは半分くらいは脚本を仕立てた上での撮り直しとのことでもあり、その印象はあながち誤りでもない様に思えます。

(評価:★4)

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